本当に大切なものは、私の外に出ない
ブログを書き始めて8年。
記事の数はおよそ1900になります。
いまだに記憶に残る記事もいくつかある。
しかし、
「一体何のためにづっと記事を書き続けてきたんだろう」
と、時々考えることがあるのです。
昔なら、日記は誰でも書けるが、衆人の目に触れるものを書ける人はごく限られていました。
今はネットがその限界を一気に広げてくれ、世界が変わりました。
無数の人たちが日々無数の記事をネットに上げている。
もちろん、書籍を出す人もいる。
それらすべての記事は、一体、本質的にはどういう価値を持っているのか。
そんなことを考えているとき、ある一つの記事(「ハワイの秘法
その本の著者は、これまでに何冊ものベストセラーを出している。
しかし今から見れば、昔のベストセラーにも物足らない点もあるし、明らかに間違ったと思える点もある。
それは、その著者自身が絶えず向上しているという証左でもあります。
今から書く本ならベストと思える内容を書けるだろうが、すでに出版した本はどうしたらいいのか。
それをある方に尋ねたところ、その人はこう答えたというのです。
「それらの本は、外に出ていません。まだ、あなたの内にあります」
謎めいた回答です。
普通に考えれば、これまでに書いた本は出版されて、外に出ている。
それを多くの人が読んでいる。
著者がその内容に対して不満があるとしても、時すでに遅し。
いろいろ考えて、この謎めいたセリフを、私なりにこんなふうに解釈してみました。
記事を書く人は、自分が悟ったこと知ったことをより多くの人に提供しようとして、書く。
あるいは、世の中の不正を正そうとして分析し、批判するために書く。
しかし、どんな類の記事であれ、本当のところは誰か他の人のために書くのではなく、本質的には常に自分自身のために書いている。
何かを書く目的は、第一義的に「自分自身が成長する」ためである。
それを言い換えたのが、
「本は外に出ていない」
ということではないかと思うのです。
「本は私の外に出ている」
と考えるのは、むしろとんだ思い違いだとさえ言えます。
本当に大切なものは常に自分の内部にあって、外に出ることはない。
自分自身が成長する目的地はどこにあるのでしょうか。
神様が私に願う目的地があります。
最終的には、神様が願う創造本性を取り戻し、永遠の霊界できちんと生きていける人格体にならねばならないのです。
私自身、書く目的をいつもそんなふうに考えて書いてきたわけではないが、少なくともそう考えることが一番腑に落ちる気がします。

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