ルネッサンスは疑いから始まった
ルネサンスとは、疑いから始まった精神運動である。一千年もの間キリスト教の教えに忠実に生きてきたのになぜ人間性は改善されなかったのか、という疑問を抱いた人々が、ならばキリスト教が存在しなかった古代では人は何を信じて生きていたのか、と考え始めたことから起こった運動だ。
だからこそ、「古代復興」が、ルネサンスの最初の旗印になったのである。
(『逆襲される文明』塩野七生著)
ルネサンスの摂理的な意義について、「原理講論」では「メシヤ再降臨準備時代」(1517年~1918年)の項目で触れています。
それによると、中世封建社会の人々は、当時の腐敗した教会制度によって創造本性を抑圧されていた。
そこで本性を解放するために、神の摂理は内外両面の運動を起こしたが、内的なものが「宗教改革」で、外的なものが「ルネサンス」として現れたというのです。
ルネサンスを推進した人々は、何を考え、何を渇望していたのでしょうか。
塩野氏によれば、その人々はこう考えた。
「おかしい。我々は1000年以上にわたって唯一にして善なる神、そしてその一人子、救い主イエスを信じてきたのに、なぜ我々の人間性はかくも変わらず、善化されなかったのか?」
そして、考えはさらに進む。
「我々は今までキリスト教しか知らなかったが、それが伝わる以前、人々は何を考え、何を信じていたのか? それを知れば、我々は己の人間性をもっと善化できる可能性があるのではないか」
原理講論によれば、ルネサンスを推進した人々が渇望したものは、大きく4つ。
① 自由
② 人格の自主性
③ 理知と理性
④ 自然と現実と科学
いずれも、古代ギリシャの人々が追求し、尊重したものです。
十字軍戦争以来、東方から流入してきた古代ギリシャのさまざまな古典によって、それが分かってきました。
「これらを追求すれば、我々の人間性はもっと高みに向けて善化されるかもしれない」
ルネサンスを推進した人々の精神にも、自己をより善化したいという人間の創造本性があるのは間違いないように思えます。
原理講論では、神様(あるいは神様の摂理)の視点に重点が置かれています。
神様の摂理には、明確な目的があります。
神様の計画通りに行かない場合、その現状を打破してメシヤ再降臨の基台を作り直していくためには、今の社会をカインとアベルに分立して摂理を展開していかれる。
ところが、そのような壮大な計画を人間たちは知る由もない。
彼らの心に起こったのは、「疑い」である。
「一千年のキリスト教信仰にも拘わらず、なぜ我々の人間性はかくも改善されないのか?」
キリスト教には何かが足りないのか?
何かもっと良いものがどこかに隠されているのか?
そのような、人間の側の精神的なもがき。
それもまた、本性から出るもがきでしょう。
ところで、塩野氏の指摘は気にかかります。
「キリスト教は本当にその信者を1000年かけても善化できなかったのか? そして、もしそれが本当なら、なぜキリスト教はそれほどに無力だったのか?」
ということです。

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