脳を喜ばせるのは、誰なのか
先日書いた記事
「いじめをやめないのは、脳なのか」
の最後に、「わだかまり」があると書いて終わっていたので、何がわだかまるのかについて、少し追記します。
わだかまりを端的に言うと、
「私は脳なのか? それとも脳以外に私がいるのか?」
ということです。
例えば、同書の一節にこのようにあります。
脳科学的には、人の脳にはいじめをするための機能が組み込まれている可能性は非常に高いのです。それは、人間の歴史として、人間がこれまで進化し、生き残ってくるために必要不可欠だったからです。
何気ない一文に見えますが、
「機能が組み込まれている」
というふうに受身形で言うなら、組み込んだ主体は一体誰なのか。
人間の歴史でしょうか。
生き残らねばならない進化上の事情でしょうか。
そのような事情があったとしても、その事情を克服して「生き残ろう」と志向した何らかの主体がいなければならないでしょう。
こういう言い回しは、独り中野さんに限ったことではない。
例えば、これはかなり古いが、今から20年余り前に出版されて300万部のミリオンセラーになった『脳内革命』(春山茂雄著)にも、同様のトリックがあるのです。
欲求を満足させて脳を喜ばせることは体にも心にもよいことなのです。
ここでも、
「脳が喜ぶ」
と言わず、
「脳を喜ばせる」
と言っています。
これは、春山さんもはっきりとは言わないが、脳の外に脳を喜ばせようとする誰かがいるということを暗に想定しているように思える。
はっきり言わないのは、はっきり言いたくないからなのか、あるいははっきり分からないからか。
それは分かりませんが、これを読んだ300万の人たちも、どこかすっきりしなかったことでしょう。
こういう曖昧なことがなぜ起こるのか。
脳の機能があまりにも高度であり過ぎるために、その働きに幻惑されるのではないかという気がします。
その機能はあまりにも高いので、最先端の科学技術をもってもいまだに未知の分野がいくらでも残っている。
ところが、その人間の脳を、ある分野ではすでにAIが凌駕しつつあります。
天才と言われる将棋や碁の棋士が、もはやPONANZAにもAlphaGoにも敵わないのです。
彼らの強みは、疲れを知らない学習能力にあります。
過去に実戦された棋譜の膨大な情報量を記憶し、それを応用する。
しかし、彼らがいくら強いといっても、過去の情報を組み込まれるからでしょう。
その際、「組み込む」のは、もちろん彼ら自身ではない。
AIに機能を組み込むのは、明らかに人間という他者です。
それなのに、人間の脳にそのさまざまな機能を組み込み、喜ばせる第三者的存在を想定しないのは、いかにも片手落ちに思われます。
脳も確かに、生まれるや否やさまざまな学習を開始継続します。
しかし、明らかに生まれながらに組み込まれている機能があると思います。
何を善と感じ、何を悪と感じるか。
何を美と感じ、何を醜と感じるか。
何を義と感じ、何を不義と感じるか。
これを良心と呼ぶことができるでしょう。
良心を第2の神と洞察したのは、実に文鮮明先生の慧眼です。
かと言って、良心が「私」だとも言えない。
ここが難しいところです。

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