良心に従う生活
「良心に従う生活」
信仰生活講座の第5回として講義し、内容を少し手直しして、今日の礼拝で説教のテーマにも使いました。
「良心とは何か」
というサブタイトルも付けたのですが、
「良心とは何者か」
としたほうがいいような気もします。
ふつうに「私」と考えている自分がいて、良心というのは、その「私」とは別個の人格として存在しているような気さえするからです。
文先生の教えによれば、
「良心は第二の神様」
言い換えれば、
「私専属の神様」
です。
良心は私の人生で「羅針盤」のような役割をして、それが指し示す方向に進みさえすれば、人生を間違うことはない。
私が人生の分岐点で迷ったとき、神様は、
「私に聞かず、良心に聞け」
と考えておられるようです。
それで、良心の責任は大きく、夜も寝ないで私を管理しようと奮闘しています。
ところが、私は良心の声にあまり従わない。
「そんなに高い基準を求められても、私にはとてもできない」
と言って、耳をふさぐのです。
あるいは、元の指示を自分の都合のいいように薄めて実行する。
それで、良心は疲れているというのです。
疲れて疲れて、瀕死状態なのに、私が間違ったほうへ行こうとするのを察知するや否や、再びぱっと生き返って、
「そっちへ行くな! 死んでしまう!」
と叫び声をあげる。
このような良心の機能や働きを考えると、良心は「私」とは別個の人格として、「番人」の役目を務めているような気がしてくるのです。

原理講論「堕落論」の中に、「自由」に関する3つの重要な定義があります。
① 原理を離れた自由はない
② 責任のない自由はない
③ 実績のない自由はない
ここで、「自由」のところを「良心」に入れ替えてみたらどうでしょうか。
全く違和感がありません。
それで、この3つの原則から離れようとするとき、良心は私に呵責を与えて、全力で阻止しようとするのです。
ところで、良心には次のような際立った特質があります。
良心は第一の神様から「私」に送られてきた専属特使なので、良心が関心を持つのは「私」に関してだけなのです。
言い換えれば、他の人の人生には関心がない。
なぜなら、他に人にはその人専属の良心があるはずなので、その人の人生はその人の良心に任せればよいからです。(良心は利己的という意味ではなく、分を弁えているということです)
私が何らかの事態に遭遇した時、私の良心は、
「それは、あの人が悪い。あの人が問題だ」
とは決して言わない。
その代わりに、
「あなたは、この事態にどう対応しようとするのか。正しく考え、正しく行動しなさい」
と、私のとるべき対応についてだけ、繰り返し諭そうとするのです。
従って、良心には「言い訳」や「弁解」が一切ありません。
良心生活にも、従って、「言い訳」も「自己弁護」も本来はあり得ないはずなのです。
文先生の自叙伝『平和を愛する世界人として』の中に、
良心が自分の主人だという事実を悟り、心を磨き、生涯親しく過ごしてみれば、誰もが良心の声を聞くことができます。
という教えが出てきます。
これについては説教の中で触れなかったのですが、
「どのようにしたら『心を磨き』『生涯親しく過ごす』ことができるのか」
については、今後もう少し深く掘り下げて講義を提供してみたいと思っています。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
神様はすべてを忘れる 2019/03/07
-
良心の小学校 2015/03/06
-
私の良心の声こそ貴い 2019/04/02
-
だから私がこゝに呼ばれた 2021/02/11
-
スポンサーサイト