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あなたはどれくらい幸福なの?

kitasendo
20171013 

人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現にほかならないのである。
(『原理講論』総序)

このような、極めて断定的な一文から始まる原理講論は、
「幸福論の書」
という見方もできるでしょう。

しかし、「幸福論」のアプローチには、宗教もあれば、哲学あるいは脳科学と、いろいろあって、あれこれ考えると、存外簡単な問題ではない。

講論では、義なる欲望に従えば本心が喜ぶ幸福を味わうが、不義なる欲望に従えば良心の呵責を受けて苦悶するという。
我々の実体験からして、否定できない分析ではあるものの、さて、本心とは何か? 良心とは何か? と考えると、なかなか難しい。

そもそも、我々は、
「幸福だ」
ということをどのように意識しているのでしょうか。

家庭連合では定期的に「幸福度」を調査するアンケートが実施されるが、
「あなたの幸福度は、10段階で言えばいくらですか?」
と問われて、いつも答えに難儀をします。

もとより、幸福というのは実体のない「感」ですから、それは数値に馴染まないものです。
しかし、それを強いて数字に置き換えようとすると、自分の幸福を「意識」で考えることになる。

「1とか2では、何だか自分が惨めだし、かと言って、10という自信もない」
などと、いくらかは人目も気にしながら、
「まあ、7くらいかな」
というところに落ち着く。

そもそも、1の幸福はどんなもので、10の幸福がどんなものか。
それも明瞭ではないのに、7の幸福とは一体何だろう?

これは考えてみると、幸福感そのものは「意識」のレベルではない。
それを「無意識」と言っていいかどうか分かりませんが、いずれにせよ、幸福感は定量的に測れるものでもなく、客観的に分析できるものでもない。

だから、幸福を感じたり、不義に苦悶したりする本心や良心も、「意識」ではない。
「なぜか分からないけど、そう感じる」
という、捉えどころのないものです。

本心や良心を無意識に属するものだと考えてみましょう。
先端の脳科学が言うように、無意識は意識の25万倍の情報を処理する能力があるので、意識が、
「これは良いのか、悪いのか」
などと亀のようにのろのろと考えている間に、遥かに速いスピードで(瞬時に)、しかも最適解を探し出している。

そうすると、本心が喜ぶことは、意識があれこれ理由を考えるまでもなく正しい。
良心が痛むことは、意識がどんなに自己正当化しても、やはり間違っている。

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Admin:kitasendo