無意識に聞いてみよう
先日、近隣の教会の総務数人で連れ立って、珍しく温泉に行った。
長湯の嫌いな私は一つだけ、バブルの噴き出る浴槽に入って、10分ほど浸かった。
何も考えずボーっとしていたいと思ったのに、やはり頭はどうしてもくるくると動き回り、あてどもないが何らかの考えが浮かんでは消えていく。
その時、脳裏に浮かんだのは、少し前に読んだ最近の脳科学の知見です。
「意識は幻覚で、本当の『わたし』は無意識である」
目の前に水の入ったグラスがある。
のどが渇いたので、そのグラスを手に取って水を飲む。
ふつうには、のどが渇いて、
「水が飲みたい」
という意思が働き、その意志に促されて手がグラスに伸び、水を飲む、と考えるでしょう。
ところが、この行動を脳波計で測定すると、「のどが渇いた」と感じてから手が動き出すまで、平均して0.2秒かかるが、運動の制御に関わる脳の補足運動野は0.55秒前に活動を始めている。
つまり、「水を飲みたい」という意思が生じる0.35秒前に、グラスに手を伸ばすという指示が筋肉系に出されている、ということです。
分かりやすく時系列に並べ直すと、
① 「グラスに手を伸ばせ」との指示がしかるべき脳の箇所から筋肉系に発信される。
② その0.35秒後に「のどが渇いた、水が飲みたい」と感じる。
③ その0.2秒後に手がグラスに向けて伸びる。
意識に分かるのは、②から。
その0.35秒前から動き始める活動は、意識が関与していない。
それを「無意識」というのでしょう。
無意識の世界で
「水を飲め」
と指示を出すので、その直後に、意識が
「水を飲みたい」
と思う。
ふつう我々は、意識としての「わたし」が意志によって欲し、意志によって考えている、と思っている。
しかし、本当は無意識が意識を動かしている(意思を起こしている)のです。
それで、本当の「わたし」は無意識だというわけです。
そもそも、無意識と意識が扱っている情報量には、桁違いの開きがあります。
例えば、視覚(視神経)は1秒当たり1000万以上の信号を受信し、脳に送信しているというのに、人が意識的に処理できる刺激は1秒当たり最大でも40要素に過ぎない。(なんと、25万分の1!)
意識が処理しきれない大半の情報は、無意識が処理していると思われるのです。
その処理能力に格段の開きがあるので、意識は無意識にアクセスできない。
1000万の情報の中から40ばかりを受取った意識は、それが「わたし」だと思って、哀れなほど貧弱な情報だけをもとにして感じたり、考えたりしているに過ぎない。
意識は無意識をコントロールできないが、無意識は意識をコントロールできる。
しかし、意識は自分がコントロールされているとはつゆ思わず、
「この意志は私の意志であり、この判断は私の判断である」
と思い込んでいる。
バブルジェットに背中を心地よく叩かれながら、
「意識ではなく、無意識で考えられないものか」
と試行錯誤してみても、やはり意識では無意識にアクセスできない。
無意識にアクセスしようとすれば、意識自体をなくすしかないようです。
あらゆる瞑想の手法は、結局これを目指すものでしょう。
本当の「わたし」にアクセスし、その考えを聞こうとする試みだと言えます。

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