作者が死ななければ、読者は誕生しない
作者がその意味を伝えるために書いたわけではないのに、読者がその意味を勝手に感じる、そしてその作品に感動することはあり得ることなのだ。作者の伝えたいとおりの思いを読者が読み取った時、感動は逆に全く生まれない。
作者が死なない限り、読者は誕生しない。ゆえに著作物はすべて「テクスト」なのである。
(ロラン・バルト)
正確な引用ではない。
人づてに聞いた内容です。
ロラン・バルトという人はフランスの哲学者。
分類すれば、構造主義ということになるでしょうか。
引用の最後の節は、イエス・キリストの
「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、多くの実を結ぶことはできない」
という言葉をもちらりと想起させます。
家庭連合には文鮮明先生の膨大なみ言葉があります。
それらは文先生が語られた、あるいは文先生を通して神様が語られたと見做され、それゆえに「御言葉」と呼ばれます。
そのみ言葉を我々が読み、学ぼうとするとき、
「このみ言葉はどのような心情と意図で語られたのか?」
と考えがちですが、バルトの考えによれば、そのようには読まないほうがいい。
「このみ言葉は、私の体験からしても、本当にそうだなあ」
というふうに、自分ながらの意味を見出す。
そして、感動する。
そのような受け止め方によって、み言葉というものは、逆に意味が多様化する。
100人が読めば100通りの読み方と感動がある。
そういうほうが、み言葉の価値をもっと高めるのではないか。
そんなふうにも思えます。
私も原理講義をする。
あるいは、時々、礼拝で説教を担当する。
そういう時に、後で感想を聞くと、
「ええ! そういうところが印象に残りましたか!」
というようなことがしばしばあるのです。
「私としては、もっとこういう点をちゃんと掴んでほしかったのだが」
と内心思ったりもする。
しかしこれは、講師(バルトでは作者)の意図した意味とは違うものを受講者(読者)が受け取ることで、思いもかけない感動(神の恩恵)が生まれているとも考えることができます。
もし、講師の意図したとおりの意味しか受講者が受け取っていなければ、感動は生まれず、み言葉としての恩恵もごく狭い範囲に限定されてしまう。
確かにそんな気がします。
本当に神のみ言葉を生きたものとして伝えようとすれば、話者は死ななければならない。
その意味は、話者個人の狭い了見で話すなということです。
「こういうふうに受け取ってほしい」
などと、限定して伝えようとするな、ということです。
話者が死んで初めて、受講者が生きる。
受講者に神の恩恵が届くということです。

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