神様のお墨付き
いちいち例をあげればきりがないのですが、原理講論は(そうと信じる人には)神様の観点で書いてあります。
復帰摂理の部分からいくつか、その例を挙げてみると。
ノアが箱舟を作って洪水を乗り越えたのち、酔っぱらって天幕の中で裸で寝ていた。
それを発見して恥ずかしく思った次男ハムは兄弟に告げて、父に着物をかけた。
ところが、それが咎となったと、講論は言うのです。
この時神様は、堕落前のアダムとエバが裸であっても全く恥ずかしがらなかった、あの天真爛漫な姿を思い描いておられ、その時の喜びを蕩減復帰したいと考えておられた。
これはしかし、当事者であるノアの家族にとっては想像もできない、あまりにかけ離れた思いであったように感じられます。
実際、ハムはこのことによって、アベルの位置に立てなかったというのですが、家族にとっては、一体問題の本質が何であったのか、全く理解できなかったでしょう。
しかし、講論を読む者は、あの時にハムが失敗していたということに一抹の疑念も差しはさまない。
アブラハムの摂理にも、このような例が満ち溢れています。
アブラハムが三種の供え物に失敗したとき、それ以上延長できない摂理を延長させるため、独り子イサクを代わりに捧げよと命じられた。
アブラハムがその天命に従って愛する息子を生贄にする覚悟を見せたとき、神様はそれを条件として、摂理的使命をアブラハムからイサクへと移された。
神様にとっては元から、イサクの命を取り去ることが目的でも願いでもなかった。
イエス様の十字架も、そうです。
サタンはその最大実権行使をしてイエス様を十字架にかけることによって、4000年にわたる神様の摂理を破綻に追い込んだと思った。
ところが、神様もサタンの行為を条件としながら最大実権行使をして、イエス様を復活させられ、それをもってその後の2000年に及ぶ霊的な摂理を出発された。
講論を読む者は、このような流れをそのまま信じるが、当事者たちは(おそらくイエス様一人を除いて)我が身にいったい何が起きたのか、ほとんど理解できなかったでしょう。
原理講論を読むことによって、我々は原理的になされる神様の摂理を分かったような気にはなるものの、その実、現実に我々の日常に起こる現象に対しては、ノアやアブラハムとさほど大差がないのではないか。
彼の家庭では起こらない問題が、我が家ではなぜ起こるのか?
あのようにしたことは、摂理的な失敗だったのか?
もしそうなら、それを埋め合わせるのに40日かけなければならないのか、あるいは40年かかるのか?
起こってくる問題には何らかの原理的な原因があるに違いないと推測するのがせいぜいで、その原因と埋め合わせ方法については、ほとんど分からない。
「こうではなかろうか?」
と思ったとしても、それは個人的な推測であって、神様のお墨付きをもらったわけではない。
そうだとすれば、原理を学んだ我々にはいったい何ができるのでしょうか。
原因を特定しないまま、それが神様由来の原因以外にはないであろうと信じる。
そのように受け入れながら、次に起こる神様の摂理に従う。
でき得る努力もするべきですが、それが神様の御心に適うかどうか、耳を研ぎ澄ませておかねばならない。

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