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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

毎週1回、10分間の原理講義

2017/08/11
原理を学ぶ 0
20170811 

日曜礼拝の中で、説教の前に毎週誰かが順番で10分間の原理講義をするようになって数か月。
数年前、チャート原理講義の教室を開いていたので、その記憶をたどって講義する人もいれば、自分で講義案を作ってする人もいます。
予めホワイトボードに必要な図と文字を板書しておき、本番では用意した講義案を読み上げる人もいます。
いずれにしても、ほとんどの会員にとって講義は初めての体験にほぼ等しいので、相当準備もするし、緊張もするようです。
しかしそれだけに、慣れた講師の講義にはない味がある講義が多い。

例えば、ぶっつけ本番、自分の言葉で説明するのは難しいから、あらかじめ原理講論やお父様のみ言葉などを検索し、その言葉を引用しながら「講義の文章」を作る。
その文章を講義のように読み上げる。
するとその言葉は、当然のことながら、練りに練った言葉であるし、口頭で語られた言葉をうまく文章にしたものなので、とてもきちんとまとまっている。

それを講義として聞いていると、
「言葉に力があるなあ」
と感じるのです。

特に原理講論の言葉は、書き言葉であり、しかも難しい表現も多いのですが、聞いていて、迫ってくる力が強い。

講義を聞いていても、そこに神様の声がそのまま生で聞こえてくるのではない。
声はどうせ、講師の言葉なのです。
しかし、声のない神様が、一体どんな表現でご自分の気持ちを伝えたいと願っておられるか。
講師の立場に立てば、今自分が語っている言葉が本当に神様の言いたいことそのままであるのかどうか、自信を持つのは難しい。

そう考えると、原理講論の言葉そのもの、あるいはみ言葉そのものをそのまま講師の言葉とするというのは、講師として初心者のようでありながら、神様の願いには近い面もあるのではないか。
そんなふうに思えてきます。

実際、原理講論の言葉はほとんど無駄のないエキスのような表現なのですが、それを聞きながら、さまざまな思いが喚起されるのです。
講義の言葉はその中にすべてを表現する必要はない。
非常に簡潔な表現であっても、それを聞く人の中に、派生的な思いや閃きを促す力が働く。

聞く人の理解を助けるために多くの説明をするのは、サービスのようでもあるが、過剰になれば、聞く人本人のためにならない。
サービスは、それを受ける人を受け身にしてしまう。
むしろサービスは最小限にして、受けた人はそこから自分自身で自分に必要な価値を構築する。
そうすれば、それは自分自身の身になる。

講義に慣れない人には、「我」がない。
そういう講義からは、学ぶものが多いことを実感します。

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