蕩減するのは神様である
文鮮明先生は、しばしば、
「蕩減という言葉ほど有り難いものはない」
と言われましたが、我々としてはなかなかそのように実感できない。
その理由を考えるために、この言葉の概念を改めて整理してみようと思います。
原理講論の「緒論」に、次のようにあります。
「どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失ったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを『蕩減』というのである」
例えば、財産を失ったなら、それを埋めるための財力などの条件を立てなければならない。
これだけ読めば、特に、
「蕩減という言葉は有り難い」
と思える理由は見出せません。
ごく当たり前のことを言っているに過ぎないと感じられます。
ところが、すぐその後に、蕩減条件には3通りあるという説明が出てきます。
① 同じもので原状を取り戻す:100万円を借りたら、100万円を返す
② より小さいもので原状を取り戻す:100万円を借りたのに、10万円で許してもらう
③ より大きいもので原状を取り戻す:100万円借りたのに利息をつけて120万円を返す
この3つのうち、「有り難い」と思えるのは、②だけです。
そして、これこそが本来「蕩減」という言葉の意味です。
しかも、本来の意味では、①も③も「蕩減」とは言えないものです。
ネットで「蕩減」という言葉を検索すると、原理用語としての意味合いがトップにずらりと並びます。
日本語圏では、「蕩減」という言葉はほとんど原理でしか使われていないということです。
その中でわずかに韓国語辞典のページで、
「蕩減とは、『棒引き』あるいは『帳消し』の意味である」
という説明が出てくる。
これが元々の意味です。
そして、この意味に合致するのは、上の3つで言えば、やはり②なのです。
さてそうすると、原理で言うところの「蕩減」の主体は誰なのか。
それは、神様です。
神様が我々人間の負債(罪)を清算するのに、「帳消し」にするという特権がある。
それで、
「蕩減するのは神様である」
と言わねばなりません。
神様は
「できるだけ小さい条件で大きな負債を帳消しにしてやりたい」
と考える方なので、「蕩減」は有り難いことであり、神様は愛だと言えるのです。
どのような場合に、神様は「蕩減」しようとされ、実際に「蕩減」できるのか。
それは、我々人間が「蕩減条件」を立てるときです。
我々が創造本然の位置と状態に戻って行こうとして何らかの条件を立てるとき、それを見て神様が「蕩減できる」と判断されれば、その条件が「蕩減条件」となり、我々は本然の立場に「復帰」されていく。
それでこれを「蕩減復帰」というのです。
まとめれば、
「『蕩減』するのは神様であり、『蕩減条件を立てる』のは我々人間である」
ということになります。
そうすると、最初に引用した原理講論の
「このような条件を立てることを『蕩減』というのである」
という表現は、ちょっとおかしい。
我々の概念理解に混乱をもたらすように思えます。
この辺りのことをよく整理しておかないと、例えば、何か問題が起こった場合に、
「私は蕩減が重いからだろうか?」
というような、本意からずれた考えに囚われることになる。
この考えをそのまま翻訳すれば、
「私は帳消しが重いからだろうか?」
ということになって、意味が通じません。
この人が言いたいのは、
「私の罪が重いからだろうか?」
ということでしょう。
罪が重いから、より大きな問題が起こる。
そのような考え方は、「蕩減」の概念と相容れない。
そして、自分に起こった問題の中に「神様の愛」を感じることが難しくなる。
問題には本来、「蕩減」という神様の愛が込められているはずなのに、「蕩減」の意味を誤解すると、神様の愛を見出せず、「自分の罪は重い」という意識に押しつぶされるのです。
「蕩減」しようとする神様は、我々がぶつかるすべての問題の中におられる。
そう考えるべきだろうと思います。

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