子女も環境も完璧なのに、私だけが完璧ではない
車を運転するとき、いろいろな人の講義を音声で聞くのが、私の楽しい習慣の一つです。
今日もある講義を聞きながら、ふと、
「信仰基台と実体基台と言うのは、感謝と愛と言い換えてもいいかも知れない」
と思ったのです。
2年ほど前から、私は講義の中でこの「感謝」と「愛」の2つを繰り返し取り上げてきました。
その始まりは、お母様にあります。
「原理をまとめれば『感謝します』と『愛しています』の2つです。これさえ本当に分かれば、原理の全体が分かったことになります」
と言われたのを聞いたのがきっかけ。
「どうしてこんな平凡な2つの言葉で原理の全体が分かると言えるのだろう?」
2年間考え続けながらも、これが今に至るも、なかなか解けない謎なのです。
今日の閃きに筋道をつけて整理してみると、大体こんなふうです。
原理ではその骨子を、
「二性性相」
「四位基台」
「責任分担」
「信仰基台」
「実体基台」
というふうに、聞き慣れない、難しい言葉で表現していますが、それを絞りに絞ってみれば、結局、
「感謝」
「愛」
の2つに還元できる。
神様の創造の動機もこの2つの言葉で説明できるし、人間が完成していく道のりとその要素も、この2つの言葉で理解できる。
ゆえに、復帰の道もやはりこの2つの言葉に要約される。
アダムとエバが完成するにも、我々がメシヤを迎えて復帰されていくにも、「信仰基台」と「実体基台」が必要だと言うが、これが「感謝」と「愛」だと考えることができる。
そうだとすると、これらはお互いにどれとどれとが対応するだろうか。
感謝が信仰基台、愛が実体基台、とも考えてみましたが、元々これらははっきり峻別できるようなものではなさそうだ。
そんな気がします。
元々神様の創造の動機は愛であるので、我々からすれば、すべてのものが感謝とならざるを得ない。
その感謝がベースとなって成長していき、万象を相対として愛するようになれば、間違いなく人間として完成する。
ところが、人間始祖は堕落して感謝と愛を失った。
それで、復帰においてその2つが要求されるのは当然です。
こんにち、我々の生活の中で、感謝はどんな意味合いを持つのでしょうか。
生活の中には「問題」が山積しており、絶え間なく「苦痛」がやってきます。
苦労の独身時代を超えて結婚し、夫婦となって子女が生まれると、全く新しい喜びを体験します。
しかしその子女が成長するにつれて思うような姿になってくれず、
「どうしてこうなったのか? 私は子育てに失敗したのか?」
と悩んだりもします。
これが親となった私の新たな「問題」であり「苦痛」です。
ところがどうでしょう。
私に子女が与えられたということが、どれほど神様の愛でしょうか。
子女なしに、私は永遠に父母の愛を体験できない。
しかも、その子が私に苦痛をもたらしてくれるようであったとしても、それが私の過去の負を清算する脱皮の道であることは間違いない。
子女も環境も完璧であり(という意味は、私のために用意された神のプログラムが完璧であり)、私だけが蕩減を抱えて完璧ではないので、その蕩減を清算するために、神様がその環境を与えてくださっている。
私が出会う日々の現実は、間違いなく私のためです。
そう考えれば、感謝する道筋が見えてくるではないですか。
それで、
「信仰のベースは感謝とならざるを得ない」
と言うことができるのです。

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