み言で「人」になる
壮年勉強会でシリーズ最後の第4講座
「甘受と浄化精誠」
を終えました。
李耀翰牧師は、
「今はみ言を宣布する時期というよりは、そのみ言で『人』になるときです。もし、み言を聞いて喜んでばかりいないで、『人』になることを心配したならば、今日よりもっとましであったと思うのが私の心情です」
と証しておられます。
今の私の問題意識も、これと同じところにあります。
「み言で『人』になる」
というのは、原理でよく言う、
「み言の実体になる」
ということです。
「み言の完成実体」
とまでは言わずとも、それに向かって着実に成長する。
そこにもっと意識を集中して生活していれば、今の私の姿はもっとましであったであろうに。
そういう後悔が私にもあるのです。
それはおそらく私だけの後悔ではなく、多くの人たちの共通の思いではなかろうかと、私なりに推察します。
今夜は疲れがあって、良い講義ができるかどうか自信がなかったのですが、集まってくださった7人の壮年たちが皆一様に真剣に聞いて下さったので、思いのほか導かれた講義になったような気がします。
真剣に聞いたということは、それぞれに思い当たる節があるからだろうと思うのです。
講義は3つの設問に基づいて構成しました。
① 苦痛の原因はどこにあるのか?
② 私の生活にはどのような苦痛があるのか?
③ 甘受とは苦痛を肯定的に受け止め、耐え忍ぶことなのか?
①の答えは、
「過去の罪にある」
ホ・オポノポノ的に言えば、
「記憶にある」
ということになります。
しかし、どんな罪なのかは特定できない。
復活論では、神が送る悪霊が苦痛を引き起こすと言うのですが、それが本当であったとしても、私とどんな関係のある悪霊なのか、その正体は知り得ない。
だから、知り得ないものを知ろうとしても仕方ない、というのが私の考えです。
苦痛の原因をあれこれ詮索するのではなく、今私が体験している苦痛にどう対処するか。
それだけに意識を集中すべきだと思うのです。
但し、特定はできなくとも、大体どんな罪があるのかは推測できます。
なぜなら、その罪と苦痛との間には因果関係があるからです。
「このような苦痛が私に起こるということは、このような罪があるのだろう」
と考えることができる。
苦痛は罪の鏡です。
しかし、それくらいのことが分かれば、それ以上深入りする必要はない。
あとは、苦痛の甘受に集中すればいいのです。
設問②と③については、日を改めて書くことにします。

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