記憶が咎めるのです
参加者の一人が質問した。
「しかし、もし私が誰かから咎められた場合、正さなくてはならないのは私であって、相手のほうではないとおっしゃるのですか?」
「あなたが誰かに咎められたとしたら、それはその人との問題ではありません。それは、あなたに反応しようとしてやってくる記憶なのです。記憶が咎めるのです。その相手の人が、ではありません」
(『ハワイの秘法』ジョー・ヴィターリ著)
ここでのキーワードは、
「記憶が咎める」
という部分です。
このことの意味がだいぶ分かってきたつもりでいても、現実に様々な問題にぶつかると、この言葉をつい忘れてしまう。
それで、悩むと、『ハワイの秘法』を何度でも開いて読む。
そして、
「そうだった。私を悩ませているのは目の前の人ではなく、『記憶』だったんだ」
ということをもう一度思い出すのです。
同じことを李耀翰牧師も言っておられます。
「病気を治そうとする者は、病気に引っ掛かるのです。病気そのものを無視しなければならないのです」
ふつう我々は病気にかかると、病気に焦点を当てて、それを治そうとする。
しかし、李牧師は「病気を無視せよ」と言うのです。
病気を無視して、どうやって病気を治せるのか?
李牧師の真意はどこにあるのでしょうか。
病気は「記憶が咎めている」のです。
ここで言う「記憶」とは、原理の言葉に言い換えれば、「蕩減問題」ということです。
「病気は蕩減問題が隠れた原因となって起こる。病気そのものに気を取られると、真の原因が見えなくなる。だから、病気そのものを無視せよ」
というのが李牧師の真意だろうと、私は考えます。
病気に限らないのです。
私が遭遇するあらゆる問題は、記憶、すなわち蕩減的な理由で起こる。
例えば、身近なある人の言動によって私はイライラし、気をもみ、悩む。
「この野郎。お前はどうしてこんな言動で私を悩ませるんだ」
と、相手を批判したい気持ちになるのですが、実はそうではない。
私のイライラ、私の悩みはその相手が引き起こしているのではなく、私の中の記憶、蕩減的な要素が引き起こしている。
これが、どうも真実のように思えるのです。
もしそうなら、私の問題はどういうふうに解決できるのか。
問題そのものを無視せよ。
相手を批判し、相手に責任を転嫁するな。
相手を無視せよ。
ただ、私の中の蕩減的要素を消去せよ。
それが最も正しい問題への対処方法だという気がするのです。

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