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挨拶は修行

kitasendo
寺掃除

禅宗の僧侶にして作家、玄侑宗久氏のエッセイ集『ベラボーな生活 禅道場の「非常識」な日々』に、挨拶に関する興味深い体験談があります。

玄侑氏が新米修行僧だった頃、毎朝寺の広い庭を掃除していると、散歩しながらやってくる年かさの僧侶がいた。
挨拶をしてくるのだが、新米僧侶は掃除に忙しく、顔も上げずにろくな挨拶も返していなかった。

ところがある日、先輩僧侶が「お前、ちょっと」と言って、教えてくれたことがある。
「毎朝挨拶してこられる方が誰だか知っているのか? この寺の管長さんだ」
と言いながら、その管長さんの昔の逸話を一つ教えてくれた。

若い頃も、毎朝散歩するのが習慣だった管長さんが、いつも出会う一人の老人がいた。
その老人に挨拶をするのに、無視するように、老人は一度も挨拶を返したことがない。
しかし管長は毎朝出会う度に挨拶をし続けた。
そういうことが何年も続いたある朝。

いつものように管長が老人に挨拶の言葉をかけると、突然老人は立ち止まり、さっと近づいたかと思うと、予期もしないことに大声で号泣し始めた・・・。

この話を教えてくれた先輩僧侶も、その老人の号泣の意味までは知らなかった。
おそらく管長も、その意味を老人に聞くようなことはしなかったのだろう。

私はこの逸話を読んで、2つのことに驚嘆しました。

① 返事も返さない相手に、飽くことなく何年にもわたって挨拶をし続けた管長のすごさ。
② 老人の心の深いところを動かし、号泣までさせた挨拶の力のすごさ。

挨拶とは、もともと禅宗の言葉で、修行僧同士が行き交うときに、お互いの修行の到達度を確かめ合うやりとりのことだったようです。
それがいつか、普通の人が行き違うときに交わす言葉を挨拶というようになったのです。

このいわれから考えても、挨拶とは決して単なる礼儀ではないと言えるでしょう。

朝起きたとき、夕方帰宅したときに、子供たちに挨拶しても、まともな挨拶が返ってくることはまれです。
昔はそういうときに、ついむっとなって、「挨拶はどうなっているんだ」と思ったものですが、
管長さんの逸話を聞いて以来、「挨拶は修行だ」と思うと、頭にくることが減ってきました。

相手から挨拶が返ってくるかどうかは、実はたいした問題ではない。
自分自身がどれだけ修行の基準を上げ、相手の心の深いところを動かし得るだけの力を持つか。
挨拶を返してくれない人は、私の修行を加速してくれる有り難い相手だと考えるようにしています。

挨拶とは、まさに修行である。

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秀逸

挨拶は修行 素晴らしい宗教的観点

 挨拶の意味を幼い時から疑問に思っていた者にとって、非常に説得力のある内容ですね。

 体育会系の人たちは、とくに上下関係がしっかりしていて厳しいので、挨拶は大切ですが、組織の上下、前後、左右だけをしっかり保つためだけでなく、もっと深い理由があるのだと。

 主体と対象はギブアンドテイクで、主体は見返りを求めず、与えるのに、反応が悪いと相手の責任にしたりします。挨拶も同じ。挨拶する主体が修行が足りなければ、挨拶の反応が悪いのは必然で、自分の身の程をしらないからとも言えるでしょう。そこには、見返りを求めない無の精神があるのでは。

玄侑宗久氏はいろんな新興宗教団体を若い頃、渡り歩き、学んでいます。統一教会に一時、教理を学んだことを明らかにしてます。

2009年10月29日 (Thu) 11:02
管理人kitasendo

玄侑氏の修道

玄侑宗久氏が統一原理も学んだことがある方とは、初めて知りました。
統一原理は超宗教ですから、いろいろな方に学んでもらって、全体的な霊性が向上することを願います。お互い、切磋琢磨の修行の道、生活信仰の道ですね。

2009年10月29日 (Thu) 11:57
秀逸

玄侑宗久氏の略歴

以下、ウィキペディアからの引用です。

玄侑氏は世界日報などにもインタビューに答えています。

新興宗教に寛容な宗教文学者、文化人といえるでしょう。

玄侑宗久
提供: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう、1956年4月28日 - )は日本の小説家、臨済宗の僧侶。

経歴
1956年(昭和31年)、福島県三春町の臨済宗妙心寺派福聚寺の長男として生まれる。カソリック系の三春幼稚園、地元の小中学校を経て福島県立安積高等学校卒業。この間、モルモン教、統一教会、天理教などに触れる。小学校3年の頃、いずれ来たるべき「死」を想って毎晩のように泣いた。また中学3年で罹った日本脳炎のため、3日間の昏睡状態を経験。意識不明中の妄想の記憶と、あとで聞かされた行動などから、あらためて「死」について考えた。高校時代は毎年家出。高三のとき出逢った哲学者星清先生に、後に出家への動機付けをいただく。

1974年(昭和49年)、18歳で上京。予備校を経て慶應義塾大学文学部中国文学中国現代演劇を専攻。在学中にイスラム教、ものみの塔に触れ、また山梨県向嶽寺などで坐禅を組み始める。この頃、小説も書き始め、同人誌「いんぐ」に参加。台湾、輔仁大学華語研究所に私費留学。学生であることを偽り様々な職種を体験。卒業をまえに「第一広告」「共同通信社」の募集要項を取り寄せるが結局試験は受けず、川口市のゴミ焼却場に勤めながら小説を書くがどうにもならず。この間引越6回。他にナイトクラブのフロアマネージャー、英語教材販売などの職を転々とする。

1983年(昭和58年)27歳の冬、京都の佐保田鶴治氏のヨガ道場を訪ね、指導を受ける。3月27日、京都嵐山の天龍寺専門道場に入門し、平田精耕老師の許で参禅。三年弱で退山。神戸、山梨などを行脚してから帰郷。

1988年(昭和63年)、4月に福島県三春町福聚寺の副住職を務める。妙心寺派教化委員。1991年(平成3年)12月、石田智子と結婚。

2000年(平成12年)、作家デビュー作「水の舳先」が第124回芥川賞候補作となり、2001年に「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞。著書多数。

2008年2月、福聚寺住職。

2009年4月、花園大学客員教授に就任。

2009年10月29日 (Thu) 21:58
管理人kitasendo

Re: 玄侑宗久氏の略歴

玄侑氏について、詳しい情報をいただき、ありがとうございます。
氏の著書はあまり多く読んではおらず、参考になりました。
これからもご愛読ください。

2009年10月29日 (Thu) 23:12
kitasendo
Admin:kitasendo