「自分の感情も考えも入れてはいけない」
Ten1ko2さんのブログによると、文先生が弟子の劉孝元氏に原理講論の執筆を指示されるとき、
「絶対に自分の感情とか考えを入れてはいけない。神様とイエス様、お父様だけを考えながら書くように」
と念を押されたとのことです。(史吉子夫人の証言)
ところが、同じ史夫人の証言の中には、
「原理講論を整理した劉孝元協会長に、原理講論を読めばそのまま講義になるように整理しなさいと指示したのだが、劉協会長が言うことを聞かなかった」(『原理に関するみ言の証』)
と文先生がのちにおっしゃった、ともある。
文先生はそう言われながら、史夫人に、
「あなたの夫が成し遂げられなかった仕事を、あなたが完成しなければならない」
と指導されたという。
それが、「チャート講義案」です。
文先生の構想からすれば、出来上がった原理講論はあまりにも膨大すぎる。
これをそのまま読んで講義するには無理がある。
チャート講義案のように、もう少しコンパクトなものが講義には向いていると、文先生は考えておられたのでしょう。
しかし、劉協会長にはまたそれなりの考えがあったようなのです。
一つは、その当時の状況。
教会に対する世間の反対は激しく、力づくでも家族を取り戻そうとしてやって来る人も多い。
そういう人に講義をして説得しようと思えば、例え話もうまい具合に織り込み、機関銃を撃つように情熱的な講義をしなければ対抗できないだろう。
協会長はそう考えたというのです。
ところが、そのような講義が伝統的なものだと見做され、その後も長きにわたって行われ続けるようになった。
草創期にはそれなりの効力があったかもしれないが、それが時代とともに変わらなかったことを、文先生は惜しんでおられたと、史夫人は証言しています。
協会長のもう一つの考えは。
「原理講論はどうしてこんなに難しいのですか?」
という夫人の問いに対して、協会長は、
「私が原理講論を現在の統一教会の食口たちの水準に合わせて書いたと思うか? 将来に読む有名な学者や神学者のために書いたのだ」
と答えたという。
このような劉協会長の考えは高尚なものでもあり、執筆責任者としての信念も感じられます。
文先生に、
「自分の感情も考えも入れるな」
と言われながらも、自分の信念を曲げない。
原理講論は、そういう御二人の真剣勝負の中から生まれたものではないかという感にも打たれます。
また、文先生のご指示の意味を自分なりに受け取ってみると、
「私は原理講義をするときに、自分の感情や考えを一切入れていないのか?」
と自問してみよと迫られているようにも思います。
講義をするときには、講義者なりに目的や願いがあるのです。
「神の実在を信じてもらわなければいけない」
「自分が罪人だということを自覚してもらわなければいけない」
「祝福の必要性を感じてもらわなければいけない」......
これらが自分勝手な、的外れの願いではないとは思いながらも、
「文先生のご指示に悖りはしないか」
と常に真剣勝負するような気概があれば、神様が何かを賦与してくださるかもしれないと期待する気持ちもあるのです。

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