「僕」という概念はいつ生まれたのか
5年以上も前に書いた記事に対するコメントが届いたので、私も改めて5年ぶりにその記事を読んでみたら、
「こんなことを書いていたのか」
と、我ながらちょっと驚きました。
「天使長が愛の減少感を抱いたのは、神様の愛し方に問題があった可能性はないのか」
という疑問を呈した後、
「神様が一見差別的に思える愛し方をされたのは、アダムへの大きな期待があったからかも知れない」
とも推測しています。
コメントでも触れられていたことで、気になる点。
神様はなぜ天使を「僕」として創造されたのか?
本然の世界において「僕」という概念があり得るのか?
これは今に至るも、私にとってうまく解けない謎として残っているのです。
あれこれ思いめぐらしながら、史吉子先生の『原理に関するみ言の証』を読んでいると、こういう箇所に当たりました。
天使長が思うに、「あんなにも神様に対して精誠を尽くして、忠実な僕としてやって来たのに、アダムとエバという息子・娘が現れたから、私はせいぜい僕にしかならないんだ」と考えたそうです。すなわち、天使長は「私は何なんだろう?」と自分を振り返ったのです。
この箇所を読んで、一瞬閃いたことです。
「天使長はもともと僕として造られたのではない。神様の弟として造られ、長い間、兄と弟の関係で協力しながら天地創造をしてきたのに、アダムとエバを前にして『自分は僕のようなものだ』と考えてしまった」
これは的外れの空想の可能性が高い。
しかし、「僕」という概念はもともと神様の中にはなかったのに、天使長自身が自分の想念の中で作り出してしまった、という、何だか一考に値するアイデアのようにも思います。
神様が兄で、天使長が弟だとすると、兄が先に結婚して夫婦となり、子女をもうける。
弟は兄の幸福を祝福しながら、自分もすぐその後に続いて結婚し、兄と同じように家庭を作っていくという青写真があった。
ところが彼は、兄が長年続いた兄弟の愛を蔑ろにして自分の子女をこよなく愛する姿を間近に見ながら、それを容認できなかった。
それで、
「これでは、私は神様の弟などではなく、神様とその子どもたちに仕える僕みたいなものではないか」
と考え、自ら惨めな気持ちになった。
それは、しかし。
原理講論の「堕落論」には、明らかに
「天使は僕として創造された」
と書いてある。
私も確かにこれまで、この点は原理の最も根幹的で不動の前提だと信じてきたのですが。
「僕」
という概念そのものを、もう少し深く考えてみる必要があるように思えてきます。
もしも、天使長が神様の弟だというのが正しいとすれば、彼はアダムとエバにとって叔父さんになる。
2人が完成して結婚し、夫婦になった暁にも、天使長は神様の偉大な弟であり、従ってアダムとエバにとっても偉大な叔父さんであり続ける。
神様も家庭を持ち、アダムとエバも家庭を持ち、天使長も家庭を持っている。
家庭を持った者同士として付き合う中にも、天使長の家庭はアダムとエバにとって、ある意味で模範ともなり、参考にもなり得る家庭として営まれる。
もっとも、天使長の家庭は子女を持てないでしょう。
これはどう考えたらいいのか、疑問は残りますね。

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