神様は休む時間を与えてくださらない
「従順」と「服従」は違う概念だというのが、文先生のお考えです。
従順は、応じることのできる環境で命令に従うことであり、服従は、応じられない環境で従うことです。
(1957.10.27)
従順にする立場には「自分」という概念がありますが、服従するところには「自分」という概念がありません。
(1995.8.23)
従順は誰でもすることができ、しなければならないことですが、服従は誰でもできるものではありません。しかし、ただ服従を通して蕩減が成し遂げられるのです。
(1967.6.7)
責任分担を完成しようとすれば、神様のみ言葉に絶対服従しなければならないのです。神様が「取って食べるな」とおっしゃったみ言葉に絶対服従していれば、責任分担を完成していたのです。
(1986.1.31)
天国に入っていくにおいて、一番の問題は何でしょうか。「私」という怨讐が潜んでいるというのです。「私」が怨讐だというのです。今まで皆さんが信仰生活をするにおいて、祈祷し、一生懸命に努力してきたすべてのことは、「私」に勝利するためです。
(1982.10.31)
このようなみ言葉を並べてみると、大体次のようなことが分かってきます。
従順は誰でもできることだが、服従は難しい。
「私」というものがあったら、服従はできない。
ところが、復帰摂理の途上にある我々において、ただ服従を通してのみ蕩減条件が立てられる。
だからこそ、信仰生活というものの核心は「私」をなくすことであった。
しかし、服従というものは復帰途上の人間にだけ要求されるものではない。
元来、エデンの園で「生命の木」として完成すべきアダムにも必要なものが服従であったのです。
「取って食べるな」
という神様のみ言葉に絶対服従することが、完成の条件でした。
「取って食べない」ことは、アダムにとって「従順」の道ではなく、「服従」の道でした。
ということは、「取って食べない」ことは、アダムにとって決してやさしい道ではなかったということです。
アダムが完成するのに必要だったのは、「私」に勝利することだったということになる。
「私」があったら、完成できないということです。
こんにちの私たちにとって、服従の道はどこに現れるのでしょうか。
原理講論の「復活論」に、「悪霊人の再臨復活」という項目があります。
それを見ると、地上人の罪を清算させるために神様はその人に悪霊人を送って、苦痛を与える業をなさしめる。
その苦痛を地上人が「甘受」すれば、神様はそれを「蕩減条件」として、罪を清算させ、恩恵を与えることができるというのです。
蕩減条件という要素で連結してみると、ここで言う「甘受」こそ、服従だと言ってもいいのではないでしょうか。
理由の分からない、あるいはいわれのない「苦痛」に対して、その理由をいちいち詮索して問いただすことなく、無条件に「甘受」することができれば、それは「服従」と言ってもいいでしょう。
人生は苦痛に満ちています。
苦痛の連続と言ってもいい。
今日の苦痛をやっと何とか乗り越えたと思ったら、明日はまた新たな苦痛が待っている。
「苦痛は嫌だ。苦痛さえなければ人生はまんざら悪くないのに」
と思う。
しかし、人生はそれでいいのでしょう。
次々に起きてくる苦痛にぶつかり、それを適切に処理すれば、一歩前進する。
それが人生とも言える。
私の人生は短いので、神様は休む時間を与えてくださらないのです。
「甘受」とは、
「苦痛を当然のこととして喜んで受け入れること」
と講論は説明しています。
これは本当に、「私」があったら難しいことです。

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