私は悪くない、だから責任を取らない
夜の壮年勉強会で、堕落論を取り上げました。
その中でも、中心テーマは、
「堕落性」。
アダムとエバは、天使長からの堕落性を受け継いだだけなのか?
堕落直後のアダムとエバの態度に見える堕落性とはどんなものか?
自分自身の堕落性をどのように発見すればいいか?
というような内容に触れる講義でした。
講義のあと、お茶を飲みながらの交流の中で、
「確かに、弁解というのは、よく出ますね」
という感想があり、そこから、過去辛くて、思わず弁解したくなった体験などの話へと発展。
昔、青年の頃、1日中伝道したが良い人に出会えず、
「頑張りましたが、今日はダメでした」
と上の人に報告すると、ぼろくそに言われた。
「あんまり腹が立つから、教会に帰らず、車の中で一晩寝ました」
あるいは、何かの出発式の時、責任者の代理で、言われた通りの目標を発表したら、
「何だ、その目標は! 低すぎる!」
と、これまたぼろくそに言われた。
「それ以来、出発式はトラウマですね」
そんな体験談がいろいろ出てきました。
私も学生の頃、
「人間プレス機」
という異名をとるリーダーのもとにいたことがあります。
それでも、なぜか私はさほどにプレスされることがなく、他にもいろいろなリーダーを体験しましたが、あまり激しく否定されるようなことがなかった。
むしろ、寛容なリーダーが多かった。
それが良かったのか悪かったのか、分かりません。
比較的、自由に、思うままに生きてきたような気がします。
今になって考えてみると、辛い体験のさなかに、それをどう処理するか。
それがとても重要なことだったなと思うのです。
講義の中でも触れた「弁解する」という堕落性。
これは何かと考えると、結局、
「私は悪くない。だから責任を取らない」
という心なのです。
堕落した直後、アダムもエバもそのように言いました。
「私は悪くない。エバに責任を問うてください」
とアダムは言う。
「私は悪くない。蛇に責任を問うてください」
とエバは言う。
このような性質が、それ以来、数千年数万年受け継がれてきた。
「それを数世紀かけても直せないというのは理論的です」
と、文先生は断言しておられる。
「文先生、そんなことを断言しないでください。何とか、私の生涯でかなりの程度解決する手立てはないのですか?」
というのが、この日の講義の問いかけでもありました。
そして、それに対する答えを見出そうというのが、次に講義する「復活論」なのです。

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