説教者の苦悩と恵み
昔、牧会者をしている頃、毎週巡って来る礼拝の説教で苦しむことが多かった。
礼拝が終わるや否や、もう次の説教を考え始めるのですが、テーマはすぐに出てこない。
テーマが決まらないままに、いつのまにやら土曜日になる。
夜になっても、まだうまくまとまらない。
日曜日の朝まで苦悩が続き、
「もう、これでいくしかない」
という、もやもやした気持ちで礼拝に臨むことが一度や二度ではなかった。
それで、実際にうまくいかないと、終わってから落ち込むのです。
教育部長となってからは、牧会者が不在の時だけ説教の役回りが巡ってきます。
年に数回。
牧会者時代に比べると随分と楽ですが、それでもやはり、説教というのは難しい。
先日テレビを見ていたら、米国で作詞を教えるどこかのカリスマ教授が、こんなことを言っていました。
「シンガーソングライターが書く詩の100の内、99はゴミだ。時たま、キラッと光り、人に感動を与える詩が書ける。でも、それでいい。恐れずに書き続けなさい」
この教訓、私の説教にも当てはあるなあ、と思ったのです。
今日の礼拝も、今年2回目の説教を担当したのですが、あまりキラッとは光らない、99のほうに入る説教だったかなという気がします。
それでも、以前とは違う感じがする点が、2つあります。
一つは、ブログを書き続けていること。
最近では、ここで書いたことが完全に私の説教の土台です。
日々考え続けているので、説教の種について悩むことは、以前のようにはありません。
もう一つは、妻が助けてくれること。
妻は生前、説教をしたことはなく、弁舌が得意なタイプでもなかった。
それで、聖和して初めの頃は、私の原理講義や説教に妻が霊界から助けてくれているとは、思いもしなかったのです。
ところが、時がたつにつれて、
「どうも、これは妻が助けてくれたんではないか」
と思えることが増えてきたのです。
まず、テーマを決めるところで。
その次に、内容を組み立てていくプロセスで。
自分なりに一生懸命なのですが、後になって振り返ってみると、
「どうも、これは自分の力だけではない」
と感じるのです。
妻が聖和するまで、霊界というのは私にとって漠然としていたのですが、妻が霊界に行って以後は、霊界から助けてくれるとすれば、まず第一には、妻。
そういう感覚が明瞭になってきました。
テーマを決める段階から、内容を作っていくプロセスにかけて、助けがあると思いますが、私の弱点は、詰めが甘いこと。
それを、もしかしたら、妻はもどかしく思っているかも知れない。
それが気がかりです。

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