fc2ブログ
まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

主人の時間と僕の時間

2017/04/02
信仰で生きる 0
20170402 

我々は誰でも、時と場合によって、主人にもなり僕にもなる。
取り立てて際立った能力や特技がなくとも、必ず主人になる場面があるものです。

主人になる資格は、
① その場所(場面)の備品やその扱い方について、誰よりも精通している
② その場所(場面)を活用することに、誰よりも責任感を持っている
③ その場所(場面)に誰よりも多くのプラスを与える

例えば、お母さんは毎日、台所の主人になり得ます。
冷蔵庫に何があるか、賞味期限はいつか。
どこにどんな調味料があるか。
家族の中の誰よりも、そういうことに精通しています。

家族の誰かが、
「お腹がすいた。何か食べるものないかな?」
と訴えれば、お母さんは、
「その要求を満たしてあげるのは私だ」
と思う。
責任感があるからです。
そして、家族の誰よりも美味しい料理を作って提供できます。

しかしそのお母さんも、生活のすべての場面で主人になれるかというと、そうではない。
何と言っても、主人の役割を演じるのは疲れます。
その場面の主人になるには、そこに深く精通するための、人並み以上の努力が必要です。
想定した通りに上手くいくかどうか、その場面が一段落するまで気が休まらない。

それで我々は普通、すべての場面で主人になろうとはしないし、あまりなりたくもない。
生活の中で、ごくわずか、自分がどうしても責任を持たないといけない場面でだけ主人になろうとする。
そして、あとの大半の場面では「僕」に甘んじるのです。

僕は自分が加わっている場面において責任を持たないので、気が楽です。
その場面に対して、ほとんど何も考えなくていいし、準備もあまりいらない。
ただ座って、
「今日はどんなごちそうが出てくるのかな」
と、気楽に待っているのです。

私もよく講義をしながら、主人と僕を感じます。
講師は講義に責任を持たねばならないので、必然的に主人です。
何日も前から講義の準備をし、推敲を重ねます。
本番に臨めば緊張は高まり、準備通りに上手くいくかどうか、不安が募る。
普段はあまり祈らない私も、この時ばかりは謙虚な祈りの人になるのです。

しかし講義を受ける人は、油断すると、僕になりやすい。
「私はこれから教えてもらう」
と思うと、受け身になる。

講師が講義中に何か質問をすると、受講者はなかなかうまくは答えられないことがある。
しかし、それも仕方ない。
講義を一生懸命準備した講師が10考えているとすれば、受講者はせいぜい1しか考えていないのが普通です。

講師は、
「なぜもっと、さっと答えてくれないのだろう?」
と思いますが、それは講師の好意的な思い違いです。

講義では主人になりやすい私も、礼拝に参加すると僕に近くなっている自分を発見します。
我々の課題は、できるだけ多くの場面で主人になることです。

「私は今日、なぜこの場面に参席するのだろう? 私はその場面で何を与えることができるだろう?」
と考えるようにすることです。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合(統一教会)へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト



Comments 0

There are no comments yet.