「被害者意識」と「責任転嫁」を封殺する
昨日の記事で書いた「祈祷講座」は分かりにくいような気がするので、少し角度を変えて補足してみたいと思います。
「私の外部で起こる出来事」と「私の内面の心の動き」。
この2つの関係性をどう捉えるかということです。
普通の考え方は、こうだと思います。
ある出来事が起こり、それを自分が体験する。
ある出来事の場合は、
「うれしい」
と感じて、心に喜びが生じる。
別の出来事の場合は、
「嫌なことが起こった」
と感じて、心に葛藤が生じる。
いづれにしても、出来事が「原因」で、心の動きが「結果」という関係です。
特に、自分にとって嫌な出来事が起こった場合、
「こんなことが起こったので、私の心に葛藤が生じて苦しい」
と思う。
そして、自分はその出来事の「被害者」になるのです。
さらに、
「私は悪くない。この出来事が悪い。それを起こした誰それ、あるいは環境が悪い」
という思いから、「責任転嫁」をすることになります。
これに対して、昨日の記事で書いたような祈祷をする人は、出来事と自分の心の動きの因果関係を逆に捉えるのです。
何か嫌な出来事が起こった場合、
「これは私の心の中に原因があって、起こった」
と考える。
別な言い方をすれば、
「私の中の蕩減を晴らすために、このような出来事が起こった」
と考える。
つまり、私の中に原因があって、結果として出来事が起こったと考えるのです。
すると、私は決して「被害者」にはなり得ない。
「誰かのせいで」
とか
「環境のせいで」
ということもできないので、「責任転嫁」する当てもない。
すべては、自分が責任を負うしかないのです。
これが昨日の記事で教師が言っていた、
「自分自身が自分の体験の源だ」
という意味です。
ところで、一体どちらの考え方のほうが、より真実に近いのでしょうか。
あるいは、どちらの考え方のほうが、私に起こった問題をより根本的に解決し得るでしょうか。
考えてみると、前者の考え方は出来事に対して「被害者意識」を抱き、「責任転嫁」をする。
「堕落性」そのものだと思えます。
ですから私としては、後者のほうに与したいのです。
私は自分の中にどんな蕩減を抱えているのか。
それは自分には見えず、自分の知力では特定できない。
特定できなければ、それを清算する道も分からない。
だから、それが分かるように、外部に現象化して、私に見せてくれる。
それが、私が遭遇する「出来事」です。
「出来事」に出会う度に、
「ああ、私にはこういう出来事に出会って清算すべき蕩減があるんだなあ」
と悟る。
そこにおいてのみ、
「甘受」
という、原理講論の「復活論」でいうところの対処が最善の方法だということが、すっと腑に落ちるのです。
ただ、「甘受」とだけ言うと、あまりに受動的過ぎる感じがします。
そこで、次のような3ステップを踏むとみるのが良いのではないかと考えます。
① 起こってくる出来事を甘受する
② めぐってくるアイデア、機会に行動を起こす
③ 行動によって起こる出来事を甘受する
これについては、また次の機会にもう少し掘り下げてみたいと思います。

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