我々は苦行の道を行くしかない
人間の本性の無限な価値を喪失した人間は、いくら行楽の席で踊っても、悲嘆の声が良心の奥深くから、昼夜休まずに聞こえてくるというのです。これを避けることができないので、人間の行く道を苦行の道だというのです。これを解決するために修養の道を尋ね歩くのです。
(「天聖経」8-4-3-3)
自然の美しい観光地を巡ってみたり、グルメ三昧の生活をしてみれば、その場では楽しく、人生の充実を感じる。
しかし、心の底を正直に見つめれば、なぜかしらどこか満たされない感じ、空しい思いが湧いてくることを否定できない。
これが我々の偽らざる実感だなと、私も思います。
なぜかというと、我々は「人間本性の無限な価値」を喪失したまま、今に至ってもまだそれを取り戻していないからです。
エデンの園で思春期を通過しながら成長していたアダムの願いは「生命の木」でした。
この「生命の木」が、「本性の価値」を現す実体でしょう。
アダムが一旦「生命の木」になりさえすれば、彼が願うすべてのものは手に入った。
そのような価値をアダムは失ったのです。
本来の私にどれほどの価値があるものなのか、理性的にも実感としても知らない。
しかし、私の本心はそれを知っているのでしょう。
その心が、
「お前がいくら行楽の席で踊りを踊っても、お前の本性の価値を取り戻すことはできない」
と遠慮なく指摘する。
その声に耳を塞ごうとしても、塞ぐことができず、昼夜を問わず聞かざるを得ないのです。
それで結局、我々の人生は望むと望まないとに関わらず、「苦行の道」「修養の道」にならざるを得ない。
「お前は自分の本性の価値を取り戻せ」
という声を聴き、身悶えしながら、生涯を生きていく運命です。
問題は、この道がいつ終わるのかということです。

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