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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「私は子どもを直接主管しない」再考

2017/02/15
瞑想三昧 0
20170215 

先日の記事「私は子どもを直接主管しない」に対して、じゅんこさんから貴重なコメントをいただきました。
とても示唆的なので、このコメントをお借りして、先日の記事を補足しながら、もう少し深く考えてみます。


間接主管圏は、神様の無条件の愛の投入期間だった、、、そう教えていただいたことがあります。直接主管しないと決めた神様は不安以上に愛することに夢中だったのではないかしら、、、と思ったり、、、だから不安の解消対策として良心を供えたのではなく、ただただ愛することに夢中になられたのでは、、、そして、その愛こそが私たちの良心を意図せずしして作り上げたのではないかしら、、、
創造主としての責任、、、この言葉は、読む私たちが、"神様の親の愛"故にと読みかえて、神様へ感謝の心を感じるところに思えました。


人間の成長期間、すなわち間接主管圏とは何だったかというと、
「神様の無条件の愛の投入期間」
であった。

「原理を外れたらどうするか」
というような不安にさいなまれ、その不安解消のために「良心教育」をしたのではない。
神様はひたすら愛することに夢中であった。

本当にそうだっただろうと、私も思います。

神様は人間に対して何らかの方法論をもって「良心教育」をされたのではない。
神様ご自身が「良心そのもの」の方であり、そのような方がまったく余念なく、ひたすら愛することに没頭されれば、その愛を受けた対象は巧まずして「良心的な存在」にならざるを得ない。

つまり、神様は人間を「良心的な存在」に育てようと思って愛を投入されたのではない。
ただ、その対象があまりにも愛らしくて、愛したくてたまらず、愛に没入していたら、対象は主体の最も核心的な部分にそっくり似て育っていくようになっていたのです。

しかし現実には、子どもたちはそういう神様の愛を裏切った。
これはどういうことか。
やはり神様の育て方に何らかの問題、間違いがあったからでしょうか。

間違ってはいなかったと、私は思います。
しかし願った通りにはならなかった。
「それは原理が間違っていたからではない。私の愛が足りなかったからだ」
と、神様は自らを責めながら、心を痛められたのではないか。

このことは、私たちが子どもを生んで育てていく際に、極めて示唆的な態度ではないかという気がします。

「私はこの子をどのような人間に育てようか」
と考えるのではない。

「私はいかに良心に従って生きるか」
「私は子どもを愛することだけを考え、愛する喜びに酔って生きよう」
それを中心に考える。
神様のように。

ここには、ある意味で、私が自分の頭で考える「子育ての方法論」はないのです。

私の中に本当の愛がないと、方法論に頼ろうとする。
また、方法論に傾けば、私の愛の真性が薄れていく。

親となった人は、子どもの心配をする前に、
「私はいかに真の人間として、良心の人となり、真の愛をもって生きるか」
を考えながら生きる。

それでも子どもが願わざる方向へ行きそうになったら、
「私はどれほど良心の人であったか。どれほど真の愛で生きたか」
と見つめ直す。
それが最も神様の人間育ての姿勢に近いのではないかと思えます。

「私はどうしたって子どもを見放さない」
それが95%の責任を持とうとする親の覚悟でしょう。

「原理講論」は人間の堕落を阻止できなかった神様の立場を、専ら「創造主としての神様の立場」あるいは「原理の絶対性」といったような「原理的」な観点から論じています。
しかし、コメントの後半にあるように、「創造主としての責任」を「親としての愛」というふうに読み直してみることも、極めて意義深いと思います。

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