私はなぜ葛藤するのか
「長い私の人生の中でも、こんな人に出会ったのは初めてだ」
と感じる場合があります。
思いがけないほど変わった人との出会い。
どんな生活をしていても、
「この人とは、どうしてもうまくやっていけないな」
というような葛藤を生じさせる人との出会いはあるものです。
例えば、今の私にも、こういう葛藤を生じさせる人が何人か身近にいます。
その内の1人は、私の母。
元来、超善人でほとんど怒ることはなく、掃除洗濯も文句一言も言わずやってくれる。
私が作る夕食も、9割5分は
「美味しい」
と言って食べてくれる。
私が葛藤する要素は、ほとんどなかった人です。
ところが、最近、日に日に物忘れがひどくなり、何度も同じことを聞き、何度も同じことを確認しようとする。
知らないうちに高価な買い物をして、
「これ、どうしたの?」
と尋ねても、
「こんなもの、いつ契約したかな?」
と、本人はさして気にするふうでもない。
そういう能天気ぶりを見るたびに、私の中に言いしれない葛藤が生じることが多くなったのです。
この葛藤は、
「相手の振る舞いが自分の心の容量に入り切らない」
というところから生まれるように思います。
「あなたはそうであってはいけない。私が許容できる範囲で振る舞ってくれ」
と、心の中で願うのですが、当然、相手はそんな私の勝手な願望に沿ってくれるはずがない。
こういう場合、問題を抱えているのは、私です。
相手はその自分の振る舞いを、特に何とも思っていない。
自然のままに振る舞っているだけ。
問題は、相手の振る舞いに勝手に葛藤している私にあるのです。
この問題を少しづつでも解決しようとすれば、まず問うべき質問は、
「あの人はなぜ、ああいう振る舞いをするのだろう?」
というものではない。
「私はなぜこの人のこの振る舞いに、こんなにも葛藤するのだろう?」
というのが、最初の質問であるべきです。
しかし、この質問に対する答えは、難しい。
ある程度の分析はできるでしょう。
それでも結局は考えても本当の理由など分からないし、敢えて言えば、分からなくていい。
そこで分析はさておく。
自己正当化もやめる。
そして、あの人のああいう振る舞いに葛藤する自分であることに気づかせてくださった神様に、ただ感謝する。
葛藤して初めて、
「ああ、私はこういうことに葛藤するんだ」
ということが分かる。
そこに私の歴史的な課題が潜んでいるということに気づく。
神様がそれを私に教えてくださっているのだと考えます。
私が葛藤する原因は、相手にあるのではなく、私の内部にある。
だから、葛藤する私を感謝とともに受け入れるのです。
しかし現実には、「相手の問題」を吹っ切るのは難しい。
「あの人のせいで ... 」
という思いのループから、なかなか抜け出られない。
しかしそうすると、イエス様がかつて言われた、
「汝自身を愛するように、汝の隣人を愛せ」
と言われた箴言を履行することが難しくなります。
なぜなら、「葛藤する私を感謝とともに受け入れる」ことができないと、「自分自身を愛する」ことができず、
そして当然、隣人を愛することもできないのです。

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