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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

この教会は私の役に立つ

2017/01/13
神は摂理する 1
20170132 

全国で芳しい成果を上げている教会の証には、参考になる点がいくつもあるものです。

① 最近大規模な礼拝を成功させた教会

新しい参加者を何人連れてこようとか、礼拝参加者数を教会実績として伸ばそうというよりも、
「我々が目指す『家庭文化』とはどういうものか、その姿を示そう」
と思った。

数的な目標を無理やり追うのではなく、
「連れてきたい礼拝」
を目指した。

企画も準備も青年たちにほとんどをまかせた。
動員数を詰めるようなことはせず、その代わりに毎日のように証し会を開いた。
家族や学校の友人の参加が決まったという感動的な証が毎日報告され、喜びに包まれた。

② 礼拝参加者が着実に増えている教会

足が遠のいている人、家族や親せき、知人友人などを、教会員たちが誘ってくれるように、教会のスタッフが電話を掛けたりメールを送ったりする。
ところが、教会員からは梨のつぶて、メールに返事が返ってこないことも多い。

そんな時、
「いっさい、不平を言わない、裁かない」
と誓い合った。

「メールを送っても、返事さえ返さない。そういう人間関係を作ってきたのは我々自身だ」
と考えた。

③ 再び教会に帰ってきた会員が多い教会

新しく礼拝に参加するようになった人がいる一方で、通っていたのに次第に足が遠のく人もいる。
それがかなり多くの教会の共通した悩みだ。

「教会の何が問題なのだろう。どのような対策を講じればいいのだろう」
すぐそのように考えがちだが、この教会は対症療法ではだめだと考えた。

「休眠食口(足が遠のいたままになる教会員)を作らない『文化づくり』をしなければだめだ」
そう考えた。

*******

3つ目の教会が考えた「文化づくり」というアイデア。
これがとても重要ではないかと、私も考えます。

文化とは、そこに住む人たちの考え方や生活の習慣などのすべてを含んだ、集団全体を支える器のようなもの。
器は私たちの土台なので、それを作り替えることは簡単ではない。
しかし、それをしない限り、今の問題は根本的に解決しない。

例えば、
「どのようにして伝道するか、どのようにして休眠食口を目覚めさせるか」
と考えるとき、どんなツールを使うか、どんな戦略を立てるか、というような発想をやめる。

その代わりに、
「私たちが今、メールを返してもくれない相手に対して、いっさい裁かない、むしろ『私たちの考え方と態度がそういう関係を作ってきた』と考えて自らを省みる、私が徹底してそのような姿の人間になることが、すなわち伝道であり、休眠食口の覚醒だ」
という発想に変える。

あるいは、
「無理やりに連れてきてでも、原理さえ聞けば分かるだろう」
と考えていたのが、
「教会の活動を担当してみると、意外にやりがいがあって自分の内面も成長するなあ。そういう喜びの私に変わってみると、私の友人も同じ喜びの輪に入ってくれるといいのに」
という思いに変わる。

このような発想や感覚の変化が、「文化づくり」、少なくとも「文化の変化」の出発点になり得るのではないかという気がします。

たくさんの人が来たくなるような魅力を持った教会を作ろうと、よく言います。
その魅力とは、教会に来た人が、
「この教会に来てみると憧れる人もいて、私の問題も解決してくれ、私の本当の願いを叶えてくれるなあ」
と感じるという魅力でないといけない。

「この教会は私の役に立つ」
と、新しい人が感じる。

それは教会に来る人を利用する教会ではなく、その人たちに利用される教会です。
そのためには、できるだけ利用価値のある教会になる必要がある。
(教会で言う「アベル」というのは「利用される人」と言い換えてもよいと思います)

ある人が、
「私には願いがある。内面の成長をしたいが、どこに行けばそれを最もよく助けてくれるだろうか」
と考えたとき、数ある団体やサークルなどの中から選ばれ得る教会。

そのような教会になるには、いろいろな面で「プロフェッショナル」になる必要もあるでしょう。


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Comments 1

There are no comments yet.

善きサマリア人

すばらしいです

徳野会長の年頭メッセージで教区あたり3000名連れてくればと説明されても、全然できる気がしませんでした。
でも現場で文化の問題に真摯に取り組むなら、希望があると感じます。
人は行きたいと願うところに行く、それだけですよね。

2017/01/14 (Sat) 21:39