天賦の才
英語では、生まれつきの天才を
「gifted」
と呼びます。
日本語で言えば、
「天賦の才」
というのに近いでしょう。
いずれも
「天からの贈り物」
という意味で、本人の努力というより、神様から賦与された能力です。
D.H.ロレンスの言葉に、
「Not I, not I, but the wind that blows through me」
という表現があります。
彼の作品は、「私」が書いたのではない。
「私の中を吹き抜けた、あの風が書いたのだ」
と言いたいのでしょう。
彼の作品の言葉は彼が書いたものではなく、彼の体を通過していった「風」が彼の体に残した「痕跡」なのです。
ロレンスは、芸術的創造を「gift」として捉えています。
小林秀雄も似たような感覚を持っていたことが伺えます。
「書くとは、分析する事でも判断する事でもない、言わば、言葉という球を正確に打とうとバットを振る事だ」
と書いています。
小林の作品はどのように出来上がってくるのか。
まず、意識の整備のために、精神を集中する。
その後は、どうするのか。
ただ待つのです。
待っていると、どこからか着想が現れ、それが言葉を整え、小林の意識に何かを命ずる。
神は一体誰を、どのように選んで「gift」を与えるのか。
それは我々の知るところではないのですが、「gift」を受ける側にも何らかの条件は必要でしょう。
私の体験でそれを説明しようとするのはおこがましい話ですが、
「かすかな風」
と感じることが、時々あります。
年中原理講義をしている立場でも、特に昨年末から今年の初めにかけて、集中的に悟る内容が訪れた感じがするのです。
なぜだろうかと考えると、まず、講義を聞きたがる受講者が現れる。
講義をすると、その受講者がとても感銘を受けて喜び、変わっていくので、次の講義をどのようにしたらもっと恩恵が深くなるかと考える。
これまでに何百回となく講義した箇所でも、一生懸命に準備するようになる。
そうすると、準備をしながら、これまでになかった閃きが訪れるようになるのです。
これは私なりの「gift」だと感じられます。
だから、「gift」というのは、私のために与えられるのではなく、私を通して与えたい人がいるので、天が私に与えるのです。
そう考えると、「gift」というのは、もらった私に留めないというのがその本質のようです。
「誰かに何かを上げたい」
と思った人のところに「gift」は天から届けられる。
もらった人は、必ず誰かにあげなくてはならない。
だから「gift」というのは、常に流れ、常に動くべきものだ。
そうして、天の恩恵が拡大していくのです。

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