「べっぴんさん」のひとコマ
先日、NHKの朝ドラ「べっぴんさん」を見ていると、こんな短いやり取りの場面がありました。
やり取りするのは、主人公すみれの姉夫婦。
なかなか子宝に恵まれなかったこの夫婦に、やっと妊娠の兆しが出てきた。
妻がはにかむように妊娠を告げると、夫は大喜び。
妻の顔には、母親になれるという喜びとともに
「夫の期待に応えることができた」
という安堵の表情も現れます。
暫くして、妻が夫に尋ねます。
「ねえ、生まれてくる子どもは、男の子女の子、どっちがいい?」
夫は一瞬考えて、
「生まれてくれさえすれば、どっちでもええで」
と答えた後、やや間をおいて、
「でも、どっちかゆうたら、男の子がええかな」
と正直な気持ちを伝えます。
後日、この夫婦がまた生まれてくる子どものことを話してるとき、夫が何気なく、
「男の子やったら、この会社を俺と一緒に支えてくれる人間に育てんとな」
と、実業家らしい期待をほのめかした。
その瞬間。
妻は、聞き取れないほどのか細い声で、
「えっ...」
と言って、それまでの明るい表情に、さっと影が差したのです。
そして、夫婦の会話がふっと途切れました。
夫は妻の表情の微妙な変化の意味を読み取ることができず、
「どうしたんや?」
と尋ねる。
「ううん、べつに .... 」
と言ったきり、妻は言葉を呑み込む。
そこで、夫婦の会話の場面は終わります。
この場面を見ながら、
「あの妻の微妙な反応は何だったんだろう」
と思い巡らし、
「この脚本家は、子どもに対する男と女の違いをうまく表現したな」
と感心したのです。(脚本家はもちろん、女性です)
子どもは自分の99.9%をお母さんからもらって育つ。
だからお母さんにとって、子どもはほぼ自分自身でありながら、いつの間にか自分とは別の存在となって自分の中から出てくる。
それゆえ、女性は自分を愛するように子どもという存在そのものを愛している。
それに対して男性にとって、子どもの中に自分の要素は0.1%しかない。
自分と子どもとの一体感は、母親ほどにはない。
だから、子どもがどんな様相でどんな能力をもって生まれてくるかに、より関心がある。
夫の何気ない言葉に、
「夫は、子どもではなく、後継ぎがほしいのだろうか」
と、妻は思ったのかもしれない。
夫が生まれてくる男の子を自分の跡継ぎにしたいと言ったのは、男性にとっては何の不自然もない感覚だったが、妻にとっては言葉にならない違和感が瞬時に生まれたのです。
妻にとって、子どもは生まれて来るだけでよい。
その子が生まれてから何をするか、何をできるかなど、ほとんど念頭に浮かんでこないのです。
この点の男女の違いは、どうしようもない。
どんなに男女平等、男女同権を主張しても、この違いだけは越えることができない。
自分の中から、自分の要素を吸収し尽くして、最後は自分とは違う存在として分離していく。
この体験は、女性特有のものですが、考えてみると、宇宙の根源に通じる、とてつもない体験に思われます。
神様の創造そのものです。
女性という性をもって生まれた人の幸運を羨むとともに、ここで男のできることは本当にわずかだな、という気持ちにもなります。

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