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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

「贈与の霊」は本当にいるのか

2016/12/18
読書三昧 0
20161218 

ネイティブ・アメリカン(通称インディアン)が信じていた
贈与の霊
についての興味深いエピソードがあります。
(『
純粋な自然の贈与 』中沢新一著)

清教徒たちが新大陸に渡り、原住民たちと遭遇したとき、異様な感じを抱いたという。
清教徒たちは倹約家で、こつこつと貯蓄するのが好きな人たちです。
ところがインディアンたちは、お互いに贈り物を交換し合い、もらったら必ずお返しをしないと気がすまない。
清教徒の目には、インディアンたちはあまりに交際好きで浪費を好む愚かな人種に見えたのです。

ところが、インディアンたちから見ると、清教徒の態度こそ異様に見えた。
例えば、こんなことがあった。

白人の行政官がインディアンの村を訪れたとき、彼を歓待するために、インディアンは彼にみごとなパイプを渡して、煙草を吸うようにと勧めた。
帰り際には、友情の贈り物として、このパイプを行政官に贈った。

数カ月後、インディアンがこの白人のオフィスを訪問すると、その居間の暖炉の上に、あのパイプが飾ってあった。
それを見て、インディアンは強い衝撃を受けた。

「白人はもらったもののお返しをしない。それどころか、もらったものを自分のものにして、飾っている。なんという不吉な人々だ」
と訝ったのです。

インディアンの思考法は、こうです。

贈り物は動いていかなければならない。
なぜなら、贈り物には「贈与の霊」があるのです。
贈り物とともに、「贈与の霊」もまた相手に手渡される。
すると、この「贈与の霊」を、別の形をした贈り物にそえて、お返ししたり、別の人たちに手渡ししたりして、霊を動かさなければならない。
「贈与の霊」が動き、流れていくとき、世界は物質的にも豊かになり、人々の心は生き生きとしてくる。
ゆえに、贈り物は自分のものにしてはならず、蓄積してはならず、たえず動いていくものでなければならない。

ところが、ピューリタンはそれを暖炉の上に飾るだけではない。
博物館に収めたり、貯めたりもする。
これでは、自分の身のまわりに集まってきた「贈与の霊」の力を、彼らは蓄積し、使わないままに所有してしまったことになる。

インディアンの見方によれば、無駄遣いの嫌いな清教徒主義(ピューリタニズム)は、大地を循環する「贈与の霊」の動きをとめることによって、自分の富を増殖させようとしていたことになる。
インディアンにとっては、それが不吉の前兆に見えたのです。

ピューリタニズムは、ものの流れを自分のところで止めることによって豊かになると考え、インディアニズムは、ものを常に流し続けることで豊かになると考えた。
どちらがより正鵠を射ているのか。
これはなかなか面白いテーマです。

現実的結果を見れば、その後、清教徒たちが土台となって建国したアメリカは世界最高の豊かな国になった。
いっぽう、インディアンたちはと言えば、大抵は特定の「居住区」などに押し込まれ、年金をもらいながら細々と暮らしている。
どう見ても、これは清教徒たちに分があるように感じられます。

「贈与の霊」
などというものは、本当に存在するのでしょうか。
あるとすれば、その霊の源は明らかに天地万物の創造主である神様ということになるでしょう。

この源は、無限に贈与する愛の発露によって、「無」から「有」を生ずる。
これが、キリスト教の言ってきた「無からの創造」です。
「有」と「有」とを交換するだけなら「有」は増えませんから、豊かになることは原理的にあり得ない。
ピューリタニズムが生み出した資本主義(キャピタリズム)も、「有」と「有」との交換だけなら、経済成長することはできないと思えます。
成長するとすれば、どこかに「無」からの贈与があるからでしょう。

キャピタリズムは、今後どうなっていくのか。
いつか、もう少し考えてみたいと思います。

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