勝者のいない闘い
櫻井節子夫人の発信がネット上に広まりつつあります。
このての話題について、私はほとんど触れてこなかったのですが、櫻井夫人の提起された主要な点については、一言言いたい気持ちになりました。
「とても共感する」
というのが、正直な気持ちです。
私が櫻井夫人の発信に触れるのは、「〇〇派」のために利そうという意図ではさらさらない。
「我々が主流派だ」
「誰それは分派、異端だ」
「誰それは失敗した」
「位置を離れたのは愛の減少感を克服できなかったからだ」
というような言い合いは、夫人の言われる通り、
「勝者のいない闘い」
に過ぎないと感じています。
今、世界規模でも超大国がまともな国の体もなしていないテロ組織と泥沼の戦いを続けていますが、この戦争に「勝者がいない」のと、酷似しているように見えます。
強いからと言って、相手を叩けば叩くほど、戦いは終結に向かわない。
双方の憎しみが増す一方だからです。
櫻井夫人の立場は、一見顕進様に近いようにも見えます。
しかし、私たちの耳に慣れた「〇〇派」というものでは決してない。
敢えて言えば、「中立」です。
私は、今の時点で、この「中立」の位置に立つことが、取り敢えず最も賢明ではないかと考えます。
それは、誰をも責めないという立場です。
自分の立場をはっきりと表明する人たちは、基本的に、
「自分は正しく、相手が間違っている」
と考え、そのように発言します。
「中立はない」
という立場です。
文先生のみ言葉を巧みに引用しながら、
「み言葉ではこう言っておられる。こう解釈すべきだ。彼らの解釈はおかしい」
というような論駁合戦もしばしば試みられます。
しかし、文先生のみ言葉はそのように、理論的に相手を論駁するために語られ、残されたのでしょうか。
私の愛を高め、成熟させ、より多くの人を包容できる人間になるためのものがみ言葉ではないのでしょうか。
我と彼を分け、両者の壁を高く厚くするだけのように見えるみ言葉の使い方を、私は好ましく感じらないのです。
「中立」というのは、左右どちらにも偏らないということでもありますが、それと同時に、
「この問題に対する責任が、自分にもある」
という自己認識を持つことでもあると考えています。
「私は文先生に直接会ったこともない、子女様にも関わったことがない」
という人であっても、
「私にも責任がある」
と考える。
責任というのは、確かにあるかどうかというより、
「私に責任がある」
と考える人が負うようになるものでしょう。
家庭に何か問題が生じたとき、
「お父さんの責任だ、お母さんが間違った、長男がおかしい」
と、互いに「自分以外の誰かの責任だ」と責め合えば、家庭の問題は修復されない。
家庭の問題は、家族すべての責任です。
組織論や裁判闘争では解決されません。
そういう気持ちを、私は櫻井夫人の発信の中に感じるのです。
真の家庭というとき、そこには必ず「真の父母」がいて、さらに「真の子女」もいなくてはなりません。
祝福家庭とは、その真の子女の弟妹になったという意味で、祝福家庭も真の家庭の一員だと言えます。
この、父母と子女たちの関係が円満にならない限り、真の家庭とは言えないでしょう。
そこに私たちすべての責任があります。
Vision2020というとき、真の父母だけ見ていてはいけない。
国家復帰だけを考えていてもいけない。
真の家庭がなければ、Vision2020などあるのか。
2020年を過ぎていった後、どんな展望が開けるのか。

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