愛だけがこの運動を完成させる
今から40年近く前の牧会です。
全く古さを感じさせないのは、人間の情の世界は昔も今も変わらないということでしょう。
しかしその反面、み言葉によって自分の情がさほど愛化されていないという情けなさも感じます。
私たちの信仰生活における核心が見事に入っていると思います。
「苦痛をどう価値化するか」
「神様の摂理は信仰運動では完成しない」
皆さんと一緒に、じっくりとこの説教を味わえればと思います。
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さて、私たちがみ旨の道を行くにあたって、(文)先生が本当によいみ言を語ってくださいました。
「おなかがすいた時、食べたい思いよりもみ旨の思いがより強いなら、その人は真の人間だ」
というみ言です。
私たちの情の世界にあって、おなかがすきながらも神様はどれほどおなかをすかしておられるかという情が先に出てきたり、自分が苦しい時にも、神はどれほど苦しいだろうかという心配が出てくれば、それが正常なのです。
自分にぶつかった出来事をそのまま受け止める人は、まだ復活できていない人です。
自分の苦しみや事情をそのままつかんで解決しようとする人は駄目だというのです。
私は私ではなく、自分の生命は自分のものではありません。
そうならば、自分にぶつかったものは誰のものでしょうか?
「父が引き受けたことを自分が分担したのだ」
という感情で受け止めなさいということです。
おなかがすいた時、苦しい時、誰をまず慰める私なのか、誰の苦しみをまず心配するようになる私なのかを、情の世界で発見しなければなりません。
(私が訪ねた人が)反対し、不信するのを見る時は、自分が神様を不信したためだと切なく思えば、その家の罪を担当することのできる贖罪者の資格をもつようになります。
言い換えれば、その家も救いを得るようになり、私も救いを得るようになります。
ですから、人の事情を自分の事情のように甘受し、感謝する人は愛の実践者となるのです。
こうでなければ、人の心の扉を開くことはできません。
とりわけ現代人の心の扉を開くことはできません。
人々は今、愛がなくて寂しがっています。
今日、愛のない家庭、愛のない現実をどのように愛で復活させるのでしょうか?
愛によってこそ、この運動が可能です。
信仰だけでは駄目です。
希望だけ与えても駄目なのです。
愛によってこそ、信じ、希望を持つようになり、愛だけが心の革命を起こすことができる時代になりました。
(「愛の実践者」李耀翰牧師 1978年11月5日)

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