「意義と価値」を嗤う
各種の研修会でも、私自身が講義するときでも、よく出てくる言葉です。
「信仰生活の意義と価値」
「祝福の意義と価値」
「み言の意義と価値」
この「意義と価値」という言葉。
これが出てくると、
「これからあなたを説得しますよ」
という思惑が漂い始めます。
この戦略は、研修会や講義では使いやすく、説得力もそれなりに期待できるのですが、例えば自分の家庭で、家族に使おうとすると、とても難しい。
なぜかと考えると、家族との間には「日常の生活」があるからです。
本当の「意義と価値」は思想や理論から出てくるのではなく、生活の実感から出てくるように思います。
それで、生活を共有していない場では話しやすいのですが、共有している場では、実感がないと言いにくいのです。
真理と愛という2つのものがあります。
愛があまり感じられない場で真理を語ろうとすると、その真理はとても空しく響く可能性がある。
とても白々しく、却って、それを語らないほうがいいくらいに感じられます。
これは聖書でパウロが、
「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである」(コリント人への第一の手紙13:1)
と言っている通りです。
真理というものは、ソクラテスが言った「イデア」のように、目に見えない空間のどこかに普遍的に存在しているのかも知れない。
しかしそれがこの世に現れようとするときには、必ず何らかの実体を通して現れざるを得ないでしょう。
それで、どういう実体が真理を語ろうとするのかが問題になるのです。
小林秀雄が面白いことを書いています。
『真贋』というエッセイの中で、
「美は信用であるか。そうである」
と断じているのです。
骨董屋が若い頃、「これは良い」と思って高額で買ったものが、目利きからは高く評価されなかった。
それで悶々と思い悩む夜を過ごした果てに、悟ったことが上の一言でした。
「この骨董が評価されないのは、自分に信用がないからだ」
そして、彼に骨董屋としての信用がつくにつれて、その骨董も美しくなっていったというのです。
これに倣えば、
「真理は信用であるか。そうである」
と言って、間違いはなさそうに思えます。
我々が何か偉そうに真理を語ろうとすれば、その前に考えるべきは、
「自分という人間は、どれほど信用に値する者か」
ということです。
これは厳しい自戒です。

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