二義のロゴス
初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は初めに神とともにあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。
(ヨハネによる福音書1:1-4)
聖書の中でも最も有名な出だしの一つです。
ここで言う「言(ことば)」の原義が「ロゴス」です。
ロゴスとはギリシャ語で、
「理法」
「論理」
「概念」
などを表す。
キリスト教では、この福音書から、
「ロゴスは神の言葉、世界を構成する論理としてのイエス・キリスト」
というふうに解釈が展開していくのです。
原理講論もある面でこのような解釈を引き継いでいます。
ところで、ロゴスの主体である神が二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物も二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった。
(第7章 キリスト論)
ところが、ユダヤ人思想家、ヴィクトル・フランクルはこんなふうに言っています。
認識はロゴスに依存している。... ヘブライ語で、認識と性行為を意味する言葉が同一であるのも偶然ではない。
(『意味への意思』)
ヨハネがどこまで意識していたのか分かりませんが、フランクルの指摘を考慮すると、ヘブライの言語世界において彼が、
「この世界はロゴスでできた」
と言うとき、それは裏面において、
「この世界は性行為によってできた」
という意味を暗に含んでいたとも推測できます。
これに沿ってヨハネ福音書を訳せば、
初めに性(行為)があった。性(行為)は神とともにあった。性(行為)は神であった。この性(行為)は初めに神とともにあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この性(行為)に命があった。
一見、ちょっと下品で突拍子もないように思えますが、原理講論の記述に思いのほか符合します。
原理によれば、神は男性と女性の二性の統一体としておられる。
そして、その神に相似したロゴスを通して二性の実体対象としてアダムとエバが現出したというのです。
有体に言えば、無形の父母がおられ、その父母が愛し合って、息子と娘を生んだということです。
ロゴスを「言(ことば)」あるいは「理法」というふうに訳してしまうと、ヨハネ福音書の出だしは、気品が高く、哲学的と言えば聞こえはいいが、分かるようで分からない。
漠然とした観念的ドグマと見做されても仕方ないように思えます。
その点、原理講論はうまく的をついていると言えます。
しかし、敢えてオブラートに包んだような表現に留めているという印象も受けるのです。

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