「文字禍」は本当にあるのか
加藤博子の『五感の哲学』を読んでいて、中島敦に『文字禍』という小説があることを知りました。
文字通り、「文字による禍」。
人間が文字を発明することによって禍がもたらされたという古代アッシリアの伝説に材をとっているようです。
文字の発明によって、どんな禍がもたらされたというのか。
まず思いつくのは、人々の記憶力が衰えたであろうことが想像できます。
しかし、禍は実のところ、それにとどまらない。
思いがけない禍があちこちで起きたというのです。
文字を覚えて以来、
咳が出始めたという者、
くしゃみが出るようになって困るという者、
しゃっくりが度々出るようになった者、
下痢をするようになった者なども、
かなりの数に上る。
一読、そんなことがあるか、それは思い過ごしだろう、という気がします。
文字とそれらの症状との間に確かに因果関係があるかどうか、定かではないでしょう。
ところが、報告された症状はこれにとどまらない。
職人は腕が鈍り、
戦士は憶病になり、
猟師は獅子を射そこなうことが多くなった
というのです。
この話のポイントは、文字の習得がその人の身体的な動きにまでつながっているということです。
ここまでくると、因果関係のあるなしに拘るより、この着眼点に面白みを感じます。
加藤さんは別の例も引いています。
例えば、昔は鼻で方角が分かったともいわれ、実際に今でもアフリカなどには鼻で方角を嗅ぎ分ける人がいるというのです。
もしかすると、これも我々が文字を習得した代わりに失った身体能力かも知れません。
体の動きは骨や筋肉の動きとして現れてくるのですが、その奥には神経の伝達や脳の働きもあるでしょうし、感情の動きも無視できないでしょう。
しかしそれだけではない、もう少し別の何か。
言葉、特に文字を介すると阻害されてしまう、神から人の体へと流れる霊的な流れのようなもの。
そういうものがあるのかも知れません。
原理講論にはこういう記述があります。
その霊人体は生霊体になるが、このような霊人体は無形世界(霊界)のすべての事実をそのまま感ずることができる。このように、霊人体に感じられるすべての霊的な事実は、そのまま肉身に共鳴され、生理的現象として現れるので、人間はすべての霊的な事実を肉身の五官で感じて分かるようになる。
(創造原理 第6節)
これを見ると、霊人体と肉身との間に「共鳴現象」が起こることによって、神霊世界の事実を肉身で感じ取るようになっているのが本来のようです。
しかし、霊人体と肉身との間に何らかの遮蔽物があれば、共鳴現象が起こらず、肉身は本来持っている最高基準の機能を発揮することができない。
その遮蔽物の一つが「文字」である可能性もあります。
加藤さんはこんな例も引いています。
神社や寺院に入ると、腹痛が起こる、寒気がする、あるいは便意を催す、そういう人がいます。
これを加藤さんは必ずしも悪い意味でとらえず、
「この空間が、普通の空間(俗)とは異質(聖)だと感じる反応」
だという解釈もできると考えます。
俗と聖がどのように違うのか。
それを言葉で言い表すことはできないでしょう。
しかしそれを正確に体で感じ分けることができるなら、我々は大切なところで間違うことがなかろうと思います。
いまから文字を手放すことは、我々にはできませんが。

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