黙して、ただ神を待つ
李海玉女史がその講話の中で、娘が3歳だった時の体験談を紹介しています。
(「世界家庭」11月号)
ちょっと目を離したすきに、娘の姿が見えなくなったことがある。
1時間、2時間と探しても見つからず、女史は気が狂いそうになりました。
幸いにも、近所の人が見つけて連れてきてくれたのですが、母親としてほっとすると同時に、無性に腹が立ったというのです。
そして、
「お母さんが見えなくても、どこにも行ってはだめ。その場にいなさい。お母さんは必ず戻ってくるから」
ときつく叱った。
それがいくばくかの後悔の念とともに思い出されるのです。
私にも体験があります。
幼いときに人混みの中で急に親とはぐれてしまうと、不安と恐怖で頭の中は真っ白になり、あてどもなく親を探し回るしかないのです。
女史はこの体験を例に引きながら、自分と娘の関係を神様と自分の関係に例えて考えてみるのです。
そして、旧約聖書のダビデの歌を引用します。
わが魂は黙(もだ)して、ただ神を待つ。わが救いは神から来る。神こそわが岩、わが救い、わが高きやぐらである」
(詩篇62:1-2)
ダビデが息子のアブサロムかサウル王に命を狙われたときに、神に捧げた祈りであると言われるものです。
「私も黙して、ただ神を待つ。私は絶対に動かない」
と女史は言います。
「私には何の力もなく、何の能力もありませんが、私はどこにも行きません。挫折して、苦しく孤独なときも、あまりにも荷が重く、そばに誰もいないように感じて恐怖に陥るときも、そして神様が見えないときでさえも、私は絶対に動かない。歩き回らない。恐れない。真の父母様が訪ねて来るのだから、その場で静かに待っている」
迷った子どもが不安のあまり親を探して動き回ると、親は却ってその子を探しにくくなります。
動かず、じっとその場にいたほうがいいのです。

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