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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

教育の第一条が誤っています

2016/10/21
信仰で生きる 0
20161021 

最近家庭連合では、「孝行の情」を約めて
「孝情」
としばしば表現することがあります。

「孝」とは「父母の愛に対して子女が捧げる美」のことですから、これはまた、
「子女の心情」
と言ってもいいでしょう。

この「孝情」はどのように涵養されるのでしょうか。

「それは無条件で生じるものではない。教育を通して可能となり、文化を通して成される」
という説明を聞いたので、これを参考にして考えてみます。


父母が直接教えてくれるのではなく、学校で学ぶのでもありません。子女のために献身的に真の愛の一生を生きていく父母の姿を見て体得し、悟るのが子女の心情です。
(文鮮明先生「後天時代の生活信仰」83)


これを見ると、孝情が「無条件で生じるものではない」のは間違いない。
しかし、いわゆる「学校教育」で学ぶものでもない。

学校はだめでも、教会なら教えることができるでしょうか。
おそらく教会でもだめでしょう。
とりわけ、教会の講義で教えることができると考えるのは、大きな錯覚です。

学校その他、いかなる教育機関、社会組織で学ぶものではないなら、あとは家庭以外にないのですが、かと言って、父母が直接教えてくれるものでもないというのです。

この意味は、
「父母が言葉によって教えるものではない」
ということでしょう。

言葉ではなく、「父母が子女のために献身的に真の愛の一生を生きていく父母の姿」で教えるのです。
そのように生きることによって、子女自身が「体得し、悟る」のが子女の心情、つまり「孝情」です。
教えられるのではなく、「自ら体得し、悟る」という点が、とても重要だと感じられます。


皆さんが平和を思い描くなら、心と体が絶対に一つにならなければなりません。これが先生の教育の第一条です。今まで聖賢たちは、世の中がみな悪く、自分たちが優秀だと思いましたが、違います。第一条が誤っています。
(『天聖経』5-4-4-19)


ここに見られる教育観は、私たちが普通に考えているそれと随分違うものです。
父母がその子女を本当の意味で教育しようとすれば、まず自らの心と体を一つにして暮らす、その姿を子女に見せなければならないことになります。
教育の第一条が誤っていれば、「孝情」というものは決して生じないのが道理です。

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