インドは未だ謎である
前回の記事で紹介した『君あり、故に我あり』がかなり興味深いので、もう一度触れてみることにします。
著者、サティシュ・クマールが序文でこう書いています。
「私はインドで生まれ育ったが、インドは私にとって未だ謎である」
サンスクリットの格言に、
「ソーハム」
という世界観があるそうです。
訳せば、
「彼は我なり」
それをさらに翻訳して、本書のタイトル
「君あり、故に我あり」
が生まれました。
これは明らかに、西洋近代哲学の祖とも言うべきルネ・デカルトの有名な
「我思う、故に我あり」
に対置するものです。
デカルトは自己の理性のみを頼りに思惟を進めていく際に、
「我と彼」
を分け、
「精神と物質」
を分ける二元論を立てました。
これが近代西洋文化の支配的パラダイムとなったことは確かです。
その辺の経緯を
「宗教が当時のヨーロッパの支配層の植民地計画、産業企画、政治構想と手を携えて進むためには、デカルト哲学、ニュートン物理学、ダーウィン生物学、フロイト心理学を主流のキリスト教徒に押しつける必要があった」
と、クマールは簡潔にまとめてくれています。
過去、インドが大英帝国の植民地の境遇に甘んじたことは、「彼あり、故に我あり」が「我思う、故に我あり」に、政治的、経済的には敗北したことだとは言えましょう。
しかし、それで消滅してしまうほど「ソーハム」の世界観は脆弱なものでもない。
恐ろしいほどに奥深い懐を持っている。
それが
「インドの謎」
です。
この「ソーハム」の深みを端的に示してくれる一例があります。
仏陀は修行の果てに、
「相互依存の現象(因縁生起)」
に目覚めました。
太陽が昇るとき緑の芽が現れ、葉が広がり、花が蕾をつけ、果実が形作られる。
太陽とともに鳥は目覚め、太陽とともに人は目覚める。
皆、ともに目覚める。
それぞれの目覚めは他のものの目覚めによっている。
仏陀はこれに気づいたとき悟りを開き、ニルヴァーナ(涅槃)すなわち解脱の状態に達した。
しかし、そのとき仏陀はこう言ったのです。
「すべての生物が悟りを開くまでは、一人だけのニルヴァーナはあり得ない」
悟りへの道は、人の生の中でも最も孤独単身な道のように思われますが、その解脱の境地さえ、単独では常住できないというのです。
「我思わず、故に我と彼あり」
とでも言うべきでしょうか。

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