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興進は、よく逝った

kitasendo
20161012

近未来を感じさせる「自動運転車」はいつ頃実用化が可能なのか。
その展望を語るラジオ番組を聞いて感じたことを書いてみる素人談義です。

自動運転車の肝は、ハード技術もさることながら、人工知能のレベルがどこまで高まるかにある。
その秘訣は、膨大な経験データの蓄積とその適切な応用だろうと思われます。

ところで、番組の中で一人の専門家がこう言うのです。

「状況によって、難しい判断を要する場合があるでしょう。例えば、トンネルの中で車線に動物がいた。それを避ければ、自分がトンネルの壁に激突して大怪我をする。あるいは、助手席に親しい人が乗っているとき、対向車とぶつかるしかない状況で、どちらにハンドルを切るか」

こういう咄嗟の判断を人工知能にさせるには、予めその作成者が判断のプログラムを組み込んでおく必要がある。
あるいは、人工知能に過去の膨大な経験データを読み込ませ、それを土台に瞬時の判断をさせようとすれば、人工知能は一体どんな判断を下すか。

この話を聞きながら、私は家庭連合に残る一つの歴史的な出来事を思い出したのです。

1983年の暮れ。
アップステートニューヨークの冬の国道を北上していた1台の小型車が、大型トレーラーに激突して大破。
トレーラーの運転手は居眠り運転で、中央線を越えたことに気づいてブレーキをかけたところ、凍結した路面を横滑りして国道を塞いだため、小型車は避けようがなかったのです。

小型車に乗っていたのは、3人の若い男性。
運転していた男性が大怪我をし、助手席と後部座席に座っていた友人たちはかすり傷ですみました。
運転者は1週間あまりの昏睡状態を経て、翌年1月2日未明に他界。
17歳の誕生日を迎えたばかりの高校生でした。

亡くなったのは文鮮明先生の次男、文興進(ムン・フンジン)君。

後日、事故の現場を検証された文先生は、こうつぶやかれました。
「興進は、よく逝った」

米国車はハンドルが左側です。
横滑りして道を塞いだ大型車に突っ込むとしたら、運転手は咄嗟(本能的)にハンドルを左に切って、助手席側からぶつかるようにするはずです。
ところが、興進君は衝突の瞬間、ハンドルを右に切り、運転手側からぶつかるように車を回転させたのです。
その結果、彼だけが大怪我を負い、後の2人は難を逃れたのです。

彼は自分の命よりも、友人たちの命を助けようとしたことがはっきりと分かり、文先生は、
「よく逝った」
と、息子の死に様を誇りに思われたのです。

人工知能ならば、あの状況でどのようにハンドルを切ったでしょうか。
というより、その知能の元は人間のプログラムにあるとすれば、我々人間はその判断の基礎をどこに置いているのか。
そのことを考えさせられます。

興進君の瞬時の判断は、膨大に集め得るデータの中でも、極めて稀なデータでしょう。
大半は左に切るべきハンドルを右に切る。
その判断をさせた、彼の中の基準は一体何なのか。
自分の命よりも他の生命を優先させる判断の源を、何と言ったらいいのでしょうか。

それを「愛」と表現してもいいのでしょうが、明らかにそれは神様の創造の動機から来ています。
ハンドルを右に切ることで愛を表すことができるなら、躊躇うことなくそうする。
我々がそうならなければ、我々が創る人工知能もハンドルを左に切る恐れがあります。

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Admin:kitasendo