国語は僕らの肉体なんだよ
国語というものをそんなふうに問題にしちゃいけない。
国語問題は僕らの外部にはない、国語は僕らの肉体なんだよ。
(『日本の一文 30選』中村明著)
冒頭の一節は、中村氏の言葉ではない。
氏の若き頃、筑摩書房の月刊雑誌『言語生活』の企画として訪問した、鎌倉に住む文筆家の言葉です。
「こんな言い回しは、あの人に違いない」
と直感する方もあるでしょう。
評論の大家、小林秀雄です。
インタビュアーがその日の取材の最後に、
「日ごろ文章を書きながら、肌で感じていらっしゃる日本語の性格ですね、便利な点、不便な点というあたりを具体的にお話しいただけませんか」
と水を向けたのに対して、それまでの穏やかな調子が一変して小林が発した激しい訴えが、この一節なのです。
ほぼ同じ意味合いの言葉は、小林の著作の中で、私も昔から何度も出会った気がします。
「国語(言葉)は自分の外にはない。言葉は自分自身だ」
こういう物言いを聞くと、私はなぜか、一種酔うような、心地よい感覚に満たされます。
「そうだな。この言葉は絶対にそのとおりだ」
という確信めいたものがあります。
そのくせ、この言葉の意味は、すっかりその奥まで理解できているとも思えないのです。
私自身は往々にして、言葉を一つの「道具」のように扱っていると自覚しているので、小林の実感は私の「憧れ」でもあるのです。
ヨハネ福音書の冒頭、
「初めに言があった。言は神とともにあった。言は神であった。この言は初めに神とともにあった。すべてのものは、これによってできた」
という有名な聖句。
これを併せて考えると、
「私は言葉でできている」
とまで言っても間違いではなさそうに思えます。

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