神様の任命責任
先日実施した3回目の青年1日修では、モーセ路程から摂理的同時性までを講義しました。
神の復帰摂理は常に神の責任分担95%と人間の責任分担5%との協動によって進むというのが、復帰原理の基本です。
その際、人間の側の責任分担はある程度具体的に明示されています。
一つは、信仰基台。
これには3つの要素があり、中心人物、条件物、そして数理的期間。
更にその上に、実体基台。
これは「堕落性を脱ぐための蕩減条件」と説明されます。
ところが、人間はほとんどの場合、この2つの責任を完全に果たすことができない。
どこかで失敗するので、復帰歴史は延長される。
それが摂理的同時性の時代を生み出すというのです。
そこで、今回の講義の中で、受講者に2つの質問を用意してみました。
① 神様の責任分担はどんなものか?
② 神様はその責任分担を失敗するということがないのか? もしないとすれば、それはなぜか?
これはしかし、難しい質問です。
実は、私自身もうまくは答えられないと自覚しながら作った設問です。
当然、受講者からは答えらしい答えは返ってきません。
それでも一人の青年が、
「誰を中心人物に立てるか。その人物を探してきて、摂理的な位置に立てるのは、神様がされることではないでしょうか」
と答えてくれました。
確かに、ノアを立て、アブラハムを立て、モーセを立てられたのは、神様の専権事項であり、責任分担と言えるようです。
しかし、彼らのような素晴らしい信仰者は、神様がただどこからか探し出してきたのではないでしょう。
あれほどの人物たちが、ただ偶然に生まれてくるとは思えません。
彼らが歴史の中に生まれてくるように準備することには、歴史の表に出ない、神様の隠れたご苦労があったのだろうと想像できます。
ところが、そのような彼らでも、任せられた責任を完全には全うできなかったという事実が残っています。
彼らがその5%を全うできない事態に立ち至った時、その5%は失敗したというべきかも知れませんが、神様の95%は全うされたと言えるのでしょうか。
人間社会の組織でも「任命責任」が問われる場面がよくあります。
大臣のスキャンダルが発覚すれば、必ずそれを任命した総理大臣の責任が追及されるのです。
神様が選んで立てた中心人物がその責任を全うできなくなった時、その人を任命した神様の責任も当然問われるだろうと考えれば、結局、人間の失敗とともに、神様も失敗したということになるのではないか。
つまり、神様の95%と人間の5%というものは、元々切り離して別物と考えることはできないのです。
イスラエル民族の最初の王サウルが不信仰に陥った時、
「神は彼を王に立てたことを悔いた」
と聖書にあります。
それは、
「私が苦労して、お前を信頼して立てたのに、なぜ失敗したのか!」
という神様ではなく、
「お前が責任を全うできなかったのは、私の95%が不足だったからだ」
という神様なのではないのでしょうか。

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