情は主体者を経なければならない
堕落した世の中で、
「あなたの家で誰が中心ですか?」
と尋ねるならば、しばらく考えたのちに、
「夫だ」
と言いますが、実際の生活では夫人は夫人の思いのままに生きており、自分勝手にしています。
夫婦というものは、情がすべて経由されなければなりません。
つまり、主体者の情を経て生きるのが、本物の原理的な夫婦なのです。
うれしいとか寂しいとかいうのも、一つのコースを経由しなければなりません。
(「心の秩序生活」李耀翰牧師)
前回の記事で、
「私心という自己中心の堕落性は、言い換えれば、神様に相談しないで自分で判断したことだ」
と考えました。
李牧師は夫婦の関係で教えておられますが、これは他のどんな人間関係でも同じでしょうし、元をたどれば、人間と神様の関係に由来することだと思われます。
李牧師の
「うれしいとか寂しいとか、すべての情は一つのコースを経由しなければならない」
という表現は独特ですが、非常に鋭いものです。
人間関係で私が対象の立場であれ主体の立場であれ、私はうれしいという情も寂しいという情も、自分だけで感じて処理してはいけないということです。
「私」という一点では、広がりがない。
「私」から出発して、「あなた」を経て、もう一度「私」に戻ってくる。
こういう流れがあるのが本来の情であり、また深みを増すもののようです。
何か良いことがあって「うれしい」という感情が湧いてくれば、
「私はこういうことがあってうれしいのですが、あなたもうれしいですか?」
と尋ねてみて、主体者も
「うれしい」
と答えれば、そのときに初めて喜ぶ。
これは感情に限らないでしょう。
何かやってみたいことがあれば、
「こういうことをやってみたいのですが、どうでしょう?」
と主体者に相談してみる。
結局、アダムとエバのところまで戻っていきます。
「天使長がこんなふうに近づいてくるのですが、神様、どうでしょう?」
「エバの様子が今までと違って変な気がするのですが、神様、どうでしょう?」
と相談してみればよかったのに、2人ともなぜか相談しなかったのです。
2人とも、神様という主体者を経るというコースを辿らなかったのです。
相談するというのは、すごいことだと思います。
私が
「こうしたいのですが、どうですか?」
と相談すれば、神様は絶対に答えなければならないはずです。
「私はうっかり聞き逃した」
とは、全知全能の神様は言えないのです。
神様は、必ず私に答え、私のやろうとすることに責任を持たなければならなくなります。
善悪の実を取って食べ、木の陰に隠れたアダムに、
「お前は取って食べたのか?」
と神様が尋ねられたのは、アダムがその本性で、
「そうです。私の責任で食べました。神様、どうすればいいでしょうか?」
と相談してくれるのを願ってのことでしょう。
相談すれば、神様は必ず答えなければなりません。
答えてやりたいと思って、尋ねられたのです。
振り返ってみると、神様に相談することがあまりに少ない自分を発見します。
どこへ行く、何を食べる、どんな話をする ...
そんな日常のあらゆることを、ほとんど自分で判断し、実行しているのです。
これが「私心」です。

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