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難渋するモーセ路程

kitasendo
20160802 

モーセ路程を扱うのは、なかなかの大仕事です。
この部分のパワーポイントを作りながら、難渋しています。

聖書を見ても、メインとなる「出エジプト記」が40章。
それに続いて、「レビ記」27章、「民数記」36章、「申命記」34章。
モーセの跡を引き継いだ「ヨシュア記」まで入れると、24章。

対する、復帰摂理の本番とも言えるイエス様の様子について、聖書には4つの福音書があります。
それぞれ20章以上あるものの、その内容はかなり重複していますから、実質は全部で30章くらいと言ってもいいでしょう。

それを反映するように、原理講論で見ても、イエス路程が32ページであるのに対して、モーセ路程は54ページ。
もともと膨大な聖書の記述をかなり忠実に引用している上に、摂理自体が複雑になっているため、モーセ路程は必然的に長くならざるを得ないとも言えます。

原理観によれば、モーセ路程は将来のイエス路程の模擬路程という位置づけです。
イエス路程を深く理解するには、その模擬路程をよく知る必要がある。
それでモーセ路程が長くなるのも、分からなくもありません。

ところが、これを講義する場合、ついつい、その摂理の流れを順番に説明していくという形になりやすい。
第一次摂理の信仰基台はこうで、第二次摂理の中には幕屋のための摂理がこんなふうに入っていて ... というような具合です。

それで講義してみると、大抵は、
「モーセ路程は難しいね」
「イスラエル民族の信仰はどうしてあんなに弱いのだろう」
などという感想に終わってしまいやすい。

「モーセ路程のポイントは何か」
ということが掴みにくいのです。

ある講師が、
「モーセ路程の最も重要なポイントは、神様がすでにメシヤの象徴体である幕屋をイスラエル民族に与えられたことである」
と講義するのを聞いたことがあります。

これは一つの見識だと思います。

ポイントを絞ることは受講者の視野を却って狭くすることにもなるので、賛否あるかも知れません。
私も迷うところです。

それにしても、今回モーセ路程をまとめるために聖書の記述を読み返してみると、モーセの時とイエス様の時とで、神様の登場の仕方がずいぶん違うなと感じます。

モーセの時には、神様は積極的に何度も現れては、
「お前、こうしろ、ああしろ」
と明確な言葉で指示をされます。

それに対して、モーセも、
「いえいえ神様、私にそれはできません」
などと、口論もするのです。

柴の火の中に現れたり、不信仰民族のテントを火で焼いたりもされます。

ところがイエス様の時になると、神様はずいぶん背景に退かれたような印象で、明確な言葉はめったになく、その分、イエス様の言葉が全面に出てきます。
神様は天使を通して摂理的人物にみ言葉を伝えますが、その後は本人の責任遂行を待たれる。

神様としては新約の聖書記者に山程書かせたいことがあったのに、ありのままに書かせることができなかった。
そんな感じもします。

これは、旧約時代と新約時代との摂理的段階の違いでしょうか。
あるいは、聖書記者の思想の違いでしょうか。
何か他に、重要な意味があるかも知れません。


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血統の違いからではないでしょうか?イエス様は神の血統であり 神の実体としてこられたので神と心情一体化されているのでイエスのされる事は神のされる事はなので神が表立ってされる必要も無いと思います モーセはあくまでも神の血統では無い摂理相続者中心人物なので 神とモーセという明確に区別された立場だったからだとおもいますが.....

2016年08月06日 (Sat) 14:46
kitasendo
Admin:kitasendo