創造原理の扉
先日、ある男性に初めての原理講義をした時のことです。
創造原理の冒頭に、最近良く使う映像を流しました。
太陽系の動きは、普通に我々が考えているより極めて複雑だというものです。(solar system)
その後、
「これほど複雑で精密なものが偶然にできるとは思えず、神が創造したに違いない。そう言いたいのではありません。これほど精密な世界を神が『なぜ』創造しようとされたのかについて、これからお話したいと思います」
と前置きして、創造原理の講義に入っていきます。
ところが、講義を一通り聞いたその男性の感想は、
「私はやはり、この世界も自分の人生も確率で動いていると思う」
というものでした。
「今のような宇宙が出来上がり、人間のような高等な生物が出現する可能性が限りなくゼロに近いとしても、まったくゼロというわけではないでしょう?」
その確率をどう計算するのか、専門的なことは私には分かりません。
それでも確かに、ゼロのマイナス何十乗かではあっても、可能性はあるのでしょう。
神の創造を肯定したい立場から、
「それほど小さな確率でこの宇宙が出来上がったと考えるのは、それこそ不合理ではないか」
と主張しても、それもやはり確率の問題です。
一方は、
「小さくても、可能性はある」
と言い、もう一方は、
「そんなに小さな確率では、可能性はない」
と、どちらも同じ「確率」を元に主張しているに過ぎません。
確率だけから言えば、どちらも自説の正しさを決定づけることはできず、水掛け論になるしかないでしょう。
それでやはり私は、
「人は神を、信じたくて信じるのだろうな」
と思うのです。
創造原理も、神の実在証明をしてはいません。
「存在するか否か」を論じることなく、神は存在することを前提として論が展開していきます。
我々は誰しも、科学的に証明され得る神を信じたいのではないように思います。
関心の中心は、神がおられるかどうかではない。
おられる神は、どのような「意思」、どのような「動機」、どのような「願い」を持った神なのか、というところに関心があるです。
「信じたい」
という最初の扉を開けて入ってこれないと、創造原理の世界が眼前に開けないように思えます。

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