方舟のカラスは何を見ていたか
先日私自身が青年に講義した「ノア家庭」の録音を聞き直して見ながら、気がついたことが一つあります。
ノアは神の命令に従って巨大な方舟を120年もかけて作り上げ、洪水審判を乗り越えることによって「信仰基台」を立てたと、原理講論には説明されています。
それに対して、洪水の後に続いて起こった天幕での裸の事件は、出来事としては方舟建造や洪水審判に比べてごく小さいことのように見えます。
ところが、実際のところ、それらに匹敵するほど重要な摂理であったとも思われるのです。
それは、父親の信仰を息子(特に次男ハム)がよく引き継げるかどうかを決めるものでした。
この引き継ぎが成功しなければ、ノア家庭での摂理はそこで頓挫してしまい、絶対に完結しないのです。
ところでこの引き継ぎが容易だったかというと、そうではありません。
結果から見ても、神様の願いの基準とハムの心の基準との間には、あまりに大きな隔たりがありました。
ノアがぶどう酒に酔っ払って裸で寝るという場面に立ち会った神様は、
「昔、アダムとエバが堕落前に裸であったあの天真爛漫で純潔な美しさを満喫した、その時の喜びを蕩減復帰したい」
と思われたと原理講論にあります。
ところが、そんな気持ちを共有してくれることをハムに期待できるでしょうか。
「ノアの家庭は、裸を恥ずかしがらず、また、それを隠そうともしないという感性と行動とを見せる」べきであったと、原理講論にはありますが、実際のところ、そんなことは万に一つも無理ではないかと思えます。
この出来事は、神様にとっては重要な「摂理」だったのですが、ノアの家族にとっては何気ない日常の一つの「出来事」だったでしょう。
日常の出来事の一つ一つを「摂理」だと感じ取る感性が、我々にはどれほどあるでしょうか。
この時のサタンは、ノアが方舟の窓から最初に放したカラスに象徴されています。
彼はノアの家庭の周りを絶えずウロウロと飛び回りながら、ある一点を狙っていたのです。
「方舟を作り上げ、洪水を乗り越えたノアの信仰は認めざるを得ない。しかし、ノアとともに信仰を持つべき息子たちの心性が変わっているかどうか」
ハム自身は信仰基台の中心ではなかったので、信仰の基準が立っていないことを神様は心配されたでしょう。
しかし、それ以上に問題であったのは、信仰基台を立ててきた父親の姿を見ながら暮らした彼の内面の心性がどこまで変化しているかということでした。
この一点を、サタンはじっと見ていたように思えます。
そして、ハムが父親の裸を発見した時、
「酒に酔って裸で寝ている父。みっともない、だらしない、恥ずかしい姿だ」
という思いがまず湧いてきたのを確認し、
「思った通りだ」
とサタンは、心の中で手を打ったでしょう。
「父親は120年かけて方舟を造り、家族たちも従ったようには見えるが、結局彼らの中身は昔と何一つ変わってはいない。信仰を立てたと言っても、所詮、創造の本性などほとんど復帰できてはいない。アダムとエバを通して受け継いだ私の血の流れは、方舟を作るほどの信仰をもってしても変えることはできなかったのではないですか」
このような理由を神様に突き付けて、サタンは再びノアの家庭に侵入するようになったのでしょう。
信仰というのは本来、我々の中身までも変えるほどでなければ駄目なのでしょうが、我々においてもハムと同様、信仰と中身とが乖離している。
そういう深刻な問題があることを否定できません。

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