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まるくまーる(旧・教育部長の講義日記)

観念的な空想家

2016/07/01
瞑想三昧 0
20160701

観念というのは心とか精神に関連するもののように思えますが、信仰の世界においては、むしろ肉体に深く繋がっているものと見ることができると思います。

毎日のように顔を合わせる人であれば、その人に会った時、
「ああ、この人は昨日も会った人だ」
と思って対する。

教会長に会えば、
「この人は教会長だ」
と考え、教会長に対すべきと思われる仕方で接しようとする。

こういう態度は、その時の「心」が最優先されていないので、
「観念で対している」
と見なければならないのです。

観念というのは、先入観と言ってもいいでしょう。
過去の体験を主要な情報源として判断します。

「あの人はこれまでこのような人だったから、今日もそのような人だろう」
という先入観で対するのを観念というのです。

あるいは、
「教会長というのは、こうあるべきだ」
というような、自分なりの枠組みで見るのも観念です。
これを固定観念と言います。

結局、観念というのは頭で考えることです。
頭は精神ではなく、体に属するのです。
理性というものも、結局は体に根を置いているように思えます。

心ではなく頭で生きる人を指して、聖書は、
「あなたは生きているというのは名だけで、実は死んでいる」
と指摘したとも考えられます。

それなら、観念ではなく「心」で対すれば、どのようになるのでしょうか。

心というのは、いつも「今」に生きています。
過去とか未来といった時間の観念がありません。
私が「今」直面している事柄。
私が「今」対面している人。
心はそれに集中します。

心は時間をかけて成長しますが、蘇生期には蘇生期の心が喜ぶことを、長成期には長成期の心が喜ぶことを、誠実に守る。
蘇生期は旧約時代に当たる時期ですから、供え物を捧げること、礼拝の時間を守ることに心を喜ばすべきです。

ところが、礼拝の時間を守れないのに、
「私は神の子でありたい」
と考えるのは観念であり、空想とも言えます。

「今は先天時代が過ぎて後天時代に入った」
と言っても、ただ摂理的に理解して言うだけなら、これも観念でしょう。

原理も心で対さないと、観念になってしまう恐れがあると、私はいつも気がかりです。


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