堕落性から確実に抜け出していく復活
前の記事で李耀翰牧師の説教を紹介しながら、
「恵みを受けた自分をもう一度否定しなければならない」
と書きました。
それはなぜかといえば、恵みを受けたという人にも、なお堕落性が残っているからです。
例えば、洗礼ヨハネという人物。
家柄も良く、よく修行を積んで霊界からも啓示を受け、従う弟子も多い、イエス様当時随一の恵み深い宗教指導者でした。
ところが、そのような人が自分の考えと立場に固執して、イエス様を正しく見ることができなかったのです。
洗礼ヨハネだけではありません。
その当時のほとんどの宗教指導者たちも同様でした。
それでそういう人たちを指してイエス様が、
「白く塗った墓だ」
と咎められたのです。
この例はあまりにもレベルの高い話といえば、そうかも知れません。
しかし私自身を含めて身近な周りを見ても、
「本当にそうだなあ」
と思うことが多いのです。
堕落性はその人の能力とも関係なく、また信仰の長さともあまり比例しないように思えます。
また、私たちは霊的な体験を重んじることもあります。
文先生の夢を見た。
ある時、聖霊に満たされたように、我ならぬ涙がとめどなく流れた。
条件を立て続けたら、奇跡のようなことが起こった .....
このようなことが信仰の原点となって、長い信仰の生活を支えてきた。
そういうことはあるでしょう。
しかし、それが私の堕落性を着実に脱がせてくれたかといえば、必ずしも繋がっていない。
恵みを受けると、どうなるのでしょうか。
恵みを受けた「自分」。
大きな使命を受け持った「自分」。
み旨に貢献した「自分」。
そういう、信仰を持つまではなかった「自分」が増えるのです。
それで神様は、そういう「自分」を再び否定させようとなさるのです。
努力して恵みを受けたと感じるとき、
「復活した」
と思うのですが、李牧師によれば、これは必ずしも本当の復活ではないようです。
自分の苦痛と神の苦痛が通じる時こそ、愛によって復活する。神の苦痛を悟り、自分の苦痛の領域から脱して愛の世界に入っていくこと、これが本当の復活です。
(説教「苦痛の中での信従」)
自分が堕落性から確実に抜け出していく復活。
これこそが本当の復活でしょう。

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