復活した私を否定する
苦痛と復活の原理について、ここ数ヶ月の間、ずっと考えています。
すると驚いたことに、李耀翰牧師が1970年代に同じテーマで説教しておられるのを発見したのです。
しかも(言うまでもないのですが)、私の考えよりももう一段も二段も深く語っておられます。
信仰の道を正しく行くためには、苦痛を正しく扱わなければならないことが分かりました。苦労はしながらも、私たちの心霊があまり復活していなかったのは、苦痛を私たちの生命の役事として感受できなかったためです。
(「苦痛の中での信従」李耀翰)
苦労はしても、それがただの苦労に終わっていれば、心霊が復活しない。
この意味は、10年前の私には悟れませんでしたが、今の私にはよく分かる気がします。
「感受」と訳されていますが、原理講論の「復活論」の内容からすれば、「甘受」でもよいと思います。
「苦痛を甘受すること」
これがまさに、復活の秘密です。
苦痛はそれを正しく受け止めれば祝福であり、神の愛です。苦痛は神の秘密が伝わってくる通路です。(同上)
この前半はよく分かります。
しかし、後半は今の私にとって、まだ掴みきれない境地です。
苦痛を甘受できれば復活できるので、それは神様の祝福になるのですが、その苦痛という通路を通して神様の愛が流れてくるというのは、容易に実感ができません。
ところが、李牧師の説教は、ここからさらにもう一段進んでいくのです。
堕落した私を否定することは、それでも易しいのですが、復活した私を否定するのは難しいのです。
今日、私たちも、み旨の前に自分を否定して入ってきましたが、もう一度否定しなければならない時があります。祝福を受ければ、自分をまた否定しなければなりません。(同上)
自分を否定することが苦痛です。
それでも最初の苦痛、すなわち、み言葉を受け入れようとするときに、それまでの自分の生活や考えを否定することは、苦痛ではあっても、それほど難しくはありません。
「罪だった」
と自覚する自分を否定することだからです。
ところが、み言葉を知り、学び、歩んでみて、神様の恩恵を受ける体験をします。
「ああ、自分は神様に愛されている。他の人とは違う、特別の人間だ」
と思う。
この
「私は特別に愛されている」
という感覚ほど、神様の愛を感じる体験はありません。
このようなとき、自分が傲慢になっているとは意識しないのですが、やはりある種の傲慢があるのでしょう。
それをもう一度、神様は否定しようとされるのです。
この二度目の否定は、自分が受けた恩恵を否定するような感覚になるので、一度目の否定より、よほど難しいのです。
神様は徹底的に、
「『自分』をなくせ」
と迫ってこられます。
罪の「自分」だけでなく、恩恵を受けた「自分」までも否定せよと言ってこられるのです。
これが苦痛です。
しかしこの苦痛を通過(すなわち甘受)してこそ、神様の本当の愛が伝わってくる。
ここで本当の復活もなされるというのでしょう。
振り返ってみると、私の中でも傲慢が育っていたのだろうと思います。
「このようなことを悟った。このようにすれば復活できると神様が教えてくださった」
と考えていたのです。
しかし、
「その悟りを捨てよ」
と言われたら、葛藤するでしょう。
結局、
「苦痛を甘受する」
というのは、
「自分をなくす」
ということです。

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