信じたくて信じる
最近の原理講義は、大半がパワーポイントを使ったものになっているようです。
確かに利点があります。
パワーポイントはあらかじめ作っておくので、その場で板書する手間がかかりません。
下手な手書きより文字はきれい。
写真も入るし、それを動かして見せることもできます。
うまく作れば、とても見栄えが良く、強い印象を与えることも可能になるでしょう。
それほど良いものなのに、私はあまり原理講義で使っていません。
我ながら「下手な字だな」と思いながらも、ホワイトボードに手書きで講義をすることが多いのです。
どうしてだろうと考えてみると、いくつか理由がありそうです。
一つは、パワーポイントは作るのに時間がかかる。
内容にマッチする絵柄や写真を準備するのは、なかなか簡単なことではありません。
センスがないと、その出来栄えには自分でもがっかりすることがしばしばです。
もう一つは、あらかじめ作っておくと、講義がそれに縛られる。
作っておいた筋書以外には講義ができないので、講義に生命力、躍動感を吹き込むことが難しい。
受講者とやり取りをしながら講義すると、受講者から思いがけない刺激を受けることもあれば、その場で啓示を受けることもあるのです。
筋書きがきちんと作られたパワーポイントは、そういう授受作用の躍動感を制限することが多い。
その点、ホワイトボードは実に使い方に自由が大きいのです。
まあこれは私の独特の感じ方かも知れません。
いろいろな方の作ったパワーポイントを拝見するとき、しばしば気になることがあります。
文先生のみ言葉の引用がとても多い、そしてとても長い講義案があるのです。
原理講義の基礎は文先生の教えですから、それはもちろん貴重なものです。
「なるほど、こういうみ言葉もあるのか」
と教えられることもあります。
しかし、その一方で、
「父性的な講義だな」
という気もするのです。
文先生のみ言葉は強く、深く、鋭く、説得力もあります。
それだけに、それが長く繰り返されると、文字通り「説得」されてしまうのです。
有無を言わさないのです。
父性的な講義の特徴は、文先生のみ言葉の引用だけではありません。
例えば、講義を初めて聞くような人に対しては、神様の存在を受け入れてもらう必要がある。
それで、進化論を取り上げて、それがいかに曖昧な理論かを説明しようとします。
そういう場合には、進化論に否定的な科学者の言説などを紹介するのが効果的です。
そうすることで、
「どうですか。進化論はおかしな理論でしょう。神様を信じるのは、決して妄想的なことではありませんよ」
と説得をしようとするのです。
私も以前はそういう講義をよくしていました。
ところが、そのようなアプローチで初めての受講者は説得されるだろうかという疑問が湧いてきたのです。
「なるほど、そう言われればそうかも知れない」
と思うかも知れません。
しかし、それは理論的に説得されてそう思わざるを得ない立場に追い込まれるのであって、
「信じたくて信じる」
ということでは、必ずしも、ないように思います。
この
「信じたくなって信じる」
という受け入れ方を促す力こそ、母性的な講義にあるのではないか。
最近は、そういう気がするのです。
(ここで言う「父性的」「母性的」という言い方は、必ずしも適切ではないかも知れませんが、講義が持つ内容の対称的要素を言おうとしています)
「こういう神様だったら、いてくださったらいいな」
と思えるような講義。
人は説得されて信じるのではなく、
「信じたいな」
と思うようになると信じ始めるのではないかと思うのです。

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