父のみ言葉と母のみ言葉
み言葉にも「父のみ言葉」と「母のみ言葉」の2種類があるのではないかという気がしてきています。
このようなことを思うようになったのは、真のお母様が、
「原理のみ言葉のエキスは2つです。『愛しています』『感謝します』この2つだけが分かれば、原理のすべてが分かります」
と言われたのを聞いたところに端を発します。
文先生のみ言葉は膨大で、啓示的であると同時に哲学的。
深遠で、過去のあらゆる思想を内包すると同時に、凌駕する。
そのすべての内容を把握することは不可能とも思えます。
ところが、お母様はその膨大なみ言葉を、
「2つでいい」
と言われたのです。
はじめてその話を耳にしたとき、
「あまりにも簡単すぎる」
と思いました。
「こんな言葉は誰でも言える。あらゆる宗教にとって常識の中の常識」
というのが、正直な印象でした。
しかし、そのあまりの簡素化が気にかかり、あれこれ考えるようになったのです。
「あの膨大なみ言葉が、どうしてこのたった2つに集約されると言われるのだろう?」
おそらく(というより、間違いなく)お母様の意図は私が考えるような浅いものではないでしょう。
「愛しています」にも「感謝します」にも、考えれば考えるほど、どこまでも深く入っていくような気がします。
お母様がたどってこられた人生の中で、この2つのみ言葉をどのように味わってこられたのか。
それが分かれば分かるほど、この2つのみ言葉の深さも分かってくるのだろうと想像するばかりです。
父のみ言葉は、骨のようです。
縦の軸です。
これが我々の人生の方向性を有無を言わさず定めてくれます。
それに対して母のみ言葉は、肉のようです。
軸は絶対に必要なのですが、それだけでは日常生活の細かな部分までをすべてカバーすることが難しいように思えます。
そういう時に母が、
「こうすればいいのよ」
と言って、細やかに具体的に諭してくれる。
これが子どもにとっては、とても有り難いのです。
これまで私たちが聞いてきたのは、ほとんど父のみ言葉でした。
母はいつも父のみ言葉をそばで聞きながら、公式の場ではたいてい寡黙でした。
しかし、その父が聖和して霊界に移って行かれて以来、母はその寡黙を破られ、「母のみ言葉」を語られるようになったのです。
父のみ言葉と矛盾するのではありません。
軸に肉をつけるのです。
原理講論に
「み言葉の完成実体」
という表現があります。
それは一体どのような姿なのか。
分かるようで難しい。
父のみ言葉はあまりに膨大なので、それがどのように実体になるのか、イメージが結びにくいのです。
しかし、
「『私は(どのような人をも)愛しています』というみ言葉の完成実体」
と言えば、もう少し分かりやすい気がします。
ですから、母のみ言葉はちょっと聞いた時の印象よりも遥かに深いのです。
父のみ言葉と母のみ言葉がどのように合わさり調和するか。
私にとって、これからの原理講義の課題です。

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