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私の人生の復帰摂理

kitasendo
20160513 

地上天国は、完成した人間一人の姿と同じ世界である。したがって、堕落した世界は、堕落した人間一人の姿に似ているということができる。ゆえに、我々は堕落した人間一人の生活を調べてみることによって、人類罪悪史の全体的な動向をのぞき見ることができるといわなければならない。
(原理講論「復帰摂理から見た歴史発展」)


大きな全体世界と小さな一人の人間とは相似形になっている。
小さな一人の人間をそのまま拡大すれば、大きな世界全体になる。
だからすべては私から始まり、私の中にすべてがある。

これは、統一原理が持っている一つの重要な基本的観点だと思います。

冒頭の内容は、摂理的同時性を説明する章の最後にある項目です。
摂理的同時性は人類の聖書歴史6000年を俯瞰しているのですが、その全体歴史は一人の人間の人生と相似の関係を持っています。
そのように見るときに、原理の歴史論が私の人生の問題として、ぐっと身近なものとして感じられるのです。


(人類の)歴史は、善悪が交錯する渦の中にありながら、大局的には、悪を退け、善を指向してきたというのが事実なのである。それゆえに、歴史が指向する終局的な世界は、すなわち善の目的が成就された天国でなければならないのである。


歴史は絶えず闘争に明け闘争に暮れてきたように見えますが、大局的に見れば、善に向かってきた。
なぜそうなるかといえば、歴史は神様の復帰摂理を原動力として動いてきたからです。

これを私の人生に当てはめると、どうなるでしょうか。

これまでの人生の中で、ある時には誘惑にひかれて悪に傾いた時もあった。
しかし私の人生は終局的には善の終着地に辿り着かなければならない。
なぜなら、私の人生も人類歴史のミニチュアである限り、それもまた神様の復帰摂理を原動力として動かざるを得ないからです。


ゆえに、闘争や戦争は、善の目的を達成するために善と悪とを分立してきた一つの過程的な現象でもあるという事実を、我々は知らなければならない。そうであるから、闘いの結果が、一時的には悪の勝利に帰したとしても、結局は、その悪の結果によって、歴史はより大きい善の目的を成就していく摂理路程に取って代わられるようになるのである。


私も人生の中で本心と邪心の矛盾葛藤に悩みますが、それらはすべて、私の中にある善と悪とを分立するための過程的な現象です。

私が邪心によって悪にひかれようとするとき、
「私の中にはこのような悪の要素があるのか」
ということに気づかされます。

気づくことによって、それを初めて分立することができるのです。

人類史の中で善と悪が戦い、善が勝とうとすれば、悪を退けるだけの力が善の側になければなりません。
それと同じように、私もその人生を善の方向へと向けるためには、悪を退けるだけの本心の力を育てる必要があります。

しかしいずれにせよ、私の人生も大局的には神様の復帰摂理によって導かれているのです。

受講者の中にはこれまで相当人生に悩んできた人もいます。
その人にこういう講義をしてみると、一時的には邪心に負けたように見えたとしても、それは一時的なことである、人生は神に向かっているという見方を受け入れることで、いくぶんかの希望を持つことができるように思えます。


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