こんな高慢な人間が天下にいるでしょうか
仏陀は生まれると、一方の手は天を、他方の手は地を指し、天上天下唯我独尊といったと聞きました。こんな高慢な人間が天下にいるでしょうか。先生は、そんな人間をなぜ理想的な人物として仰いでおられるのでしょうか。お教え下さい。
(『代表的日本人』内村鑑三著)
このような挑戦的な質問を師にしたのは、当時13歳の中江藤樹です。
彼は後に「近江聖人」と呼ばれる、江戸時代初期の儒学者です。
藤樹の理想は謙譲に徹することであり、生涯、仏教を好きになれなかったようです。
しかし、お釈迦様のあの有名な言葉は、藤樹が言うように本当に高慢から出たものでしょうか。
どうも、そうではないように思われます。
文先生がお釈迦様について言及されるとき、しばしばその一句を引用されます。
例えば、こんなふうに。
宇宙に共鳴する真の愛、内的な神様、外的な神様の愛を慕って一つになるとき、宇宙がすべて私のものになり、私は偉大な人になり、すべての全体が私にぶら下がっていると思うようになるのです。
釈迦牟尼のような人も、そのような立場で感じたので、天上天下唯我独尊という言葉も可能なのです。
(『世界経典』670)
これを読むと、明らかに文先生は釈迦牟尼と同じ境地に入られたことがあり、その体験から、釈迦牟尼の言葉が決して高慢から出たものではないと証言しておられるのが分かります。
「天上天下唯我独尊」
これは、人間の倫理的な立場から出た言葉ではなく、ある種の心霊的な境地に入って直感した言葉に違いありません。
はっきりと神様の本体に出会ったのではないにせよ、宇宙に充満する神様の真の愛に自分の心が共鳴したのです。
藤樹はこのような心霊的な悟りの道を好む人ではなかったのでしょう。
しかし、徹底した謙譲を追求した藤樹には別の面で偉大なところがあります。
仏教のお釈迦様。
儒教の孔子様。
考えてみると、この2人の偉大な先師は、それぞれ非常に違った道を通して本来の人間像を求めたのです。
お釈迦様は、
「天上天下唯我独尊」
と喝破されました。
一方の孔子様は、
「為善者、天報之以福、為不善者、天報之以禍」
(善を行う者は天が福をもって報い、悪を行う者には禍をもって返す)
と教えました。
この孔子様の言葉に触れて、文先生は、
「孔子がこの言葉を語れたということは、(漠然とではあっても)天を知っていたからです」
と言われます。
お釈迦様は本来の人間としての自分の価値を求めるために、王子の位置も妻子も捨てられました。
一方、孔子様は現世の人間関係を重視し、「礼式において人類を代表できる内容を教え」(文先生)てくれました。
それゆえ、孔子様の教えにしたがった藤樹は、名誉と高禄を捨ててでも、近江で一人暮らしとなった母に仕える道を選んだのです。

にほんブログ村
- 関連記事
-
-
退行する身体性 2021/07/08
-
子女の愛はどのように育つのか 2014/07/22
-
神の摂理から見た資本主義 2014/07/10
-
本当に大切なものは、私の外に出ない 2017/12/10
-
スポンサーサイト